芥川龍之介 ひょっとこ「ひょっとこ」のあらすじ(ネタバレあり)です。「ひょっとこ」未読の方は気を付けてください。ガチ感想も書いています。

この「ひょっとこ」は、ひょっとこの面をかぶって花見船で馬鹿踊りをしていた男・山村平吉が、突然死んでしまうところからぐっと引き込んでくる作品です。ここから先はネタバレも交えつつ、物語全体の流れをざっくり押さえていきますね。

舞台は隅田川の吾妻橋。橋の上から花見船を眺める群衆の視点で、「ひょっとこ」の面をつけた男が、酔って足元もおぼつかないまま踊り続ける様子が描かれます。やがてその男は船の中に倒れ込み、そのまま頓死したことが知らされます。

そこから視点は、山村平吉という一人の男の来歴へと移ります。日本橋で絵具屋を営む平吉は、臆病で、普段は小さな嘘ばかりついて生きている男です。しかし酒を飲んでひょっとこの面をかぶり、馬鹿踊りをしている間だけは、別人のように大胆になり、「本当の自分」になれたような気がしていました。

ところが、花見船で倒れた平吉が最期に「面を取ってくれ」と言い、面の下から現れた顔は、誰も見慣れていない、普段とも酔った時とも違う、不気味な顔でした。変わらないのはひょっとこの面だけ。こうして「ひょっとこ」は、人間の二面性どころか「本当の顔とは何か」という問いを、静かで残酷なかたちで突きつけてきます。

「ひょっとこ」のあらすじ(ネタバレあり)

隅田川にかかる吾妻橋の欄干には、春の花見シーズンを楽しむ人びとがびっしりと並び、川を行き交う花見船を眺めています。橋の上から見下ろすと、飾り立てた伝馬船の上で、酔客たちが唄い、騒ぎ、踊っており、その滑稽さに橋の上の群衆は笑い声をあげています。

その中の一艘で、ひときわ目を引くのが、ひょっとこの面をかぶった背の低い男です。ちゃんぎりの音に合わせて、でたらめな手振り足振りで馬鹿踊りを続けるその姿は、橋の上の見物人から見るとおかしくてたまらず、嘲笑混じりの歓声が湧き起こります。男はすでにかなり酔っており、足元はふらつき、踊りは次第に危ういものになっていきます。

やがてひょっとこの男は、船べりを踏み外すようにして、どさりと船底に仰向けに倒れ込みます。最初、橋の上の群衆はそれさえも余興の一部だと思い、どっと笑います。しかししばらくして、男が脳溢血で即死したことが伝わると、船上にも橋の上にも重たい気まずさが広がります。

男の正体は、山村平吉という四十代半ばの絵具屋であると明かされます。日本橋若松町で店を構え、痩せたそばかす顔の女房と、兵役中の息子と暮らしている、ごく平凡な町人です。暮らし向きは楽ではないものの、飢えるほどでもない。ただ、彼には「酒」と「ひょっとこ舞い」という厄介な道楽がありました。

平吉は若い頃から酒好きで、医者から二度も卒中を起こしているから酒をやめろと厳しく言われていながら、それでもやめられません。酒を飲むと、普段は小心者で人の顔色ばかり窺っている自分が、急に大胆になり、誰の前でも物怖じせずにいられるからです。彼にとって酔っている時間は、束の間の解放の瞬間でした。

しかし、平吉にはもうひとつ、厄介な性質があります。普段の平吉は、ほとんど無意識のうちに、小さな嘘をいくつも重ねてしまうのです。十一歳で紙屋に奉公に出たときの話、法華気違いだった店の旦那のこと、若い女と遊ぶため店の金をごまかしていたこと、心中話を断ったら相手の女が別の男と心中してしまったこと──彼はそんな話を人にしゃべって聞かせます。

さらに二十歳で父が亡くなり、実家に戻ったときのことも、彼は面白おかしく語ります。五十がらみの番頭に頼まれて書いてやった女への恋文、その番頭が店の金を持ち逃げして駆け落ちした話など、いかにもありそうなエピソードが続きますが、どこまで真実でどこからが作り話なのかははっきりしません。

やがて、「平吉から嘘を取り除いたら、いったい何が残るのか」という問いが投げかけられます。日常の平吉は、臆病さを隠すための嘘をあちこちに散りばめており、妻の前でも子どもの前でも、どこか本心を見せきれていません。彼にとっての現実は、嘘と見栄でできた、薄い膜のようなものに過ぎないのです。

そんな平吉が、酒を飲み、ひょっとこの面をかぶって舞い始めるときだけは、その膜が一瞬はがれ落ち、心の底に沈んでいた何かが表に出てきます。船上での馬鹿踊りは、他人から見ればただの滑稽な余興ですが、当の平吉にとっては、「本当の自分になれる瞬間」であり、同時に、医者の忠告も家族の心配も忘れてしまう危うい時間でもありました。

あの日、花見船で平吉はいつもどおり酒をあおり、面をかぶって踊り始めます。歓声を浴び、笑われながら、足取りは次第におぼつかなくなり、ついに船底へと転げ落ちます。脳溢血による突然の死。最期の瞬間、彼はかすれた声で「面を…面を取ってくれ」と頼み、ひょっとこの面と手拭が外されます。

しかし、面の下から現れた平吉の顔は、誰も見たことのない顔でした。臆病で嘘つきな日常の平吉とも、酔って馬鹿踊りをする奔放な平吉とも違う、どこか「他人のような」顔だったのです。ひょっとこの面だけが、相変わらずとぼけた表情を浮かべたまま残り、読み手は「いったいどれが平吉の本当の顔だったのか」という不気味な問いを抱えたまま、物語の幕を閉じることになります。

「ひょっとこ」の感想・レビュー

この作品を読み終えたとき、まず胸に残るのは、あまりにもあっけない死と、それに対照的なひょっとこの面の存在感です。ひょっとこの面は終始おどけた顔を保ったままなのに、その下の山村平吉だけが突然いなくなってしまう。この落差が、「ひょっとこ」という短編に独特の後味を与えています。ネタバレ込みで語ると、その「後味」こそが読みどころと言いたくなります。

ひょっとこは、単なる酒席の余興道具として登場しているようでいて、人間の二面性を象徴する強烈なモチーフになっています。平吉には「臆病で嘘つきな普段の顔」と「酒を飲んで大胆になるときの顔」という、少なくとも二つの顔があります。そこにさらに「ひょっとこの面」という第三の顔が重なることで、「本当の顔はどれなのか」という不安が、じわじわと作品全体を支配していきます。

山村平吉という男を見ていると、「酔うと人格が変わる」タイプの人間像が、とてもリアルに描き出されていると感じます。素面のときは、気が小さく、人の機嫌を損ねまいと、つい愛想笑いやお世辞を並べてしまう。ところが酒が入ると、急に声が大きくなり、身振りも荒くなり、普段なら言えないことまで口にしてしまう。現代の飲み会風景にも、そのまま紛れ込めそうな人物像です。

ただし、ひょっとこが面白いのは、「酔ったときの自分こそ本物だ」と単純には言い切らせてくれないところです。平吉は、酔っている自分と素面の自分と、どちらが本当なのか分からなくなる瞬間があります。さらにそこへ、「普段から嘘ばかりついている」という事実が重なることで、彼のアイデンティティはますます曖昧になります。嘘で作った過去の話を語っているときの平吉は、はたして酔っているときよりも真面目と言えるのか。作品は、そこに鋭い疑問を差し込んできます。

平吉の「嘘つきぶり」は、読んでいてどこか身につまされる部分があります。紙屋での奉公時代の話や、女との関係、番頭の恋文など、いかにも「ありそうな」エピソードが並ぶのですが、それが丸ごと作り話かもしれないと示される。誇張や脚色を交えながら自分の過去を面白く話すことは、ある意味、誰もがやっていることでもあります。ひょっとこは、その日常的な「盛った話」を極端に引き伸ばし、嘘を取り除いたときに「何も残らない」人間の危うさを浮かび上がらせています。

ここで印象的なのは、平吉が特別な悪人として描かれていない点です。彼は確かに嘘をつきますし、金をごまかして遊ぶような話も語りますが、それがどこまで事実なのかも分からない。むしろ、周囲の目を気にしすぎるあまり、つい虚勢を張ってしまう、ごく小市民的な人物として立ち上がってきます。だからこそ、彼がひょっとこの面をかぶって踊る場面は、読者にとっても「羨ましいような、怖いような」感情を呼び起こすのです。

ひょっとこの面は、いわば「責任を取らなくていい顔」です。面の下にいる自分がどんなことをしても、それは面のせいにできる気がする。平吉は、そんな心理に身を委ねて、酒と踊りの中に飛び込んでいきます。ところが、最期に彼が発する言葉は「面を取ってくれ」。この一言は、ネタバレを承知で言うなら、作品全体のコアにあたる場面だと感じます。生涯、嘘と仮面に頼ってきた男が、死の間際になってようやく面の下の顔を差し出そうとしているようにも読めるからです。

しかし、そこで現れた顔は、家族や町内の誰も見覚えのない、奇妙な顔でした。ここで読者は、ある種の不安に放り込まれます。あれほど「どちらの自分が本当か」と悩んでいた平吉の「本当の顔」が、誰の記憶にもない顔だというのは、あまりにも皮肉です。もしかすると、彼自身さえ、自分が何者なのか理解していなかったのではないか。死の瞬間に浮かんだその顔は、「誰でもない者」の顔だったのではないか。作品は理由を説明しないまま、読者の想像に委ねます。

この構造が、ひょっとこを単なる酒席悲劇ではなく、「自我の不確かさ」をめぐる作品へと押し上げています。人は、家族の前での顔、職場での顔、友人の前での顔といった複数の「顔」を使い分けていますが、そのどれにも収まらない「素の自分」が本当に存在するのかどうかは怪しい。ひょっとこは、ネタバレ前提で言えば、「素の自分」という幻想を静かに解体していく物語だとも言えます。

また、吾妻橋から花見船を見下ろす群衆の視点も、重要な役割を果たしています。橋の上の人びとは、ひょっとこの男が倒れたときさえ、しばらくは笑い続けています。誰かが死んだと知って初めて、笑いが凍りつく。この「見物人の冷笑」と「突然の死」の対比には、都市の匿名的な残酷さがにじんでいます。ひょっとこは、平吉個人の物語であると同時に、群衆社会の冷たさを横目で描いた作品でもあります。

描写面で見ると、冒頭の川の様子や船の飾り、ちゃんぎりの音など、細部まで執念深く描き込まれているのが印象的です。花見船の賑やかさと、川面の冷たさ、その上に立つ吾妻橋の高さが、読んでいるだけで立体的に感じられます。その緻密さゆえに、ひょっとこの面をかぶった男が船底に倒れ込む瞬間の「落下」が、視覚と聴覚の両方に響くように伝わってきます。

構成もよくできていて、まず橋の上から眺めた「ひょっとこの死」が提示され、そのあとで平吉の来歴にさかのぼり、最後に再び船上の最期へ戻ってくる、という三段階の流れになっています。この往復運動のおかげで、読者は平吉の内面を一通り知ったうえで、もう一度あの馬鹿踊りと死の場面を見直すことになる。ネタバレ前提で言うなら、二度目にその場面を思い返したとき、笑いの裏側に潜んでいた哀しさがはっきりと姿を現してきます。

ひょっとこは、「仮面をかぶった人物が登場する話」というだけなら昔話的な題材にも見えますが、そこに嘘や自己演出の要素を折り込むことで、非常に現代的なテーマへと接続されています。自分の過去を都合よく話し直すこと、場の空気に合わせてキャラクターを作ること、酔ったときだけ別の自分になろうとすること──こうした行動の集積が、人間の「顔」を作っているのだと、作品は静かに告げているようです。

読後、ふと考えてしまうのは、「自分にとってのひょっとこの面は何か」ということです。人によってそれは、職場での肩書きかもしれませんし、家庭で演じている役回りかもしれません。あるいは、ネット上で使っているアイコンや名前かもしれない。どれもそれなりに「自分」なのですが、どれを取っても「本物」だと言い切れない。その揺らぎを意識させるところに、「ひょっとこ」の鋭さがあります。

そして最後に残るのは、「山村平吉とは、ひょっとこそのものだったのではないか」という感覚です。面をかぶっているときの彼こそが、一番のびのびしていたのだとすれば、その面は彼にとって「救い」でもあったはずです。しかし、死の瞬間にその面を自ら外させたことを思うと、彼は最後の最後で「面にすべてを明け渡す人生」から抜け出そうとしたのかもしれません。けれども、面の下から現れた顔は誰の知る平吉でもなかった。ここに、ひょっとこという作品の、どうしようもなく冷たい優しさと、救いきれない哀しみが同居しているように感じます。

まとめ:「ひょっとこ」の超あらすじ(ネタバレあり)

  • 吾妻橋から花見船を眺める群衆の前に、ひょっとこの面をかぶって馬鹿踊りをする男が現れる。
  • 男は酒に酔って足元もおぼつかないまま踊り続け、やがて伝馬船の中に仰向けに倒れ込む。
  • 最初、橋の上の見物人たちはそれを余興の一部と勘違いし、どっと笑い声を上げる。
  • しかししばらくして、男が脳溢血で即死したことが知らされ、場の空気が一気に冷え込む。
  • 男の名は山村平吉、日本橋の絵具屋で、痩せた妻と兵役中の息子を持つ、ごく平凡な町人だと明かされる。
  • 平吉は臆病な性格で、日常生活では無意識のうちに小さな嘘を重ね、自分を誇張して語る癖があった。
  • 一方で酒が入ると、ひょっとこの面をかぶって大胆な馬鹿踊りを始め、普段とは別人のようになることを好んでいた。
  • 彼自身、素面の自分と酔った自分のどちらが本当なのか分からず、嘘を取り除くと何が残るのかという不安を抱えていた。
  • 花見船の宴席で平吉はいつものように踊り、突然倒れ、死の間際に「面を取ってくれ」と周囲に頼む。
  • 面と手拭を外すと、そこに現れた平吉の顔は、誰も見覚えのない奇妙な顔であり、変わらずとぼけたひょっとこの面だけが、その場に取り残される。