小説「しのぶセンセにサヨナラ」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

東野圭吾氏の初期作品に連なるこの短編集は、前作に登場した型破りな小学校教師、竹内しのぶのその後を描いたものです。教職を離れ、内地留学という名目で大学に在籍中の彼女が、相変わらずトラブルを引き寄せる様を追っています。

かつての教え子である鉄平や原田といった少年たちの成長と、彼らを取り巻く大阪の日常が描かれる一方で、持ち込まれるのはどこか力の抜けた、しかし油断ならない事件の数々。これは、才気溢れる作家が、ひとつの世界観に一時的に腰を下ろした際の、良くも悪くも肩の力の抜けた一冊と言えるでしょう。

小説 しのぶセンセにサヨナラ あらすじ

物語は、内地留学中の竹内しのぶが遭遇するいくつかの出来事をオムニバス形式で綴ります。第一話「しのぶセンセは勉強中」では、草野球参加が思わぬ事件の始まりとなり、自殺か他殺か、密室の謎に立ち向かうことになります。しのぶの勘と行動力が、事件の核心へと迫るきっかけを作り出します。

続く「しのぶセンセは暴走族」では、交通事故の増加に心を痛めたしのぶが自動車学校に通い始め、そこで起こる奇妙な出来事が新たな事件へと繋がります。犬の排泄物が示すもの、そして早朝特訓中の事故の裏に隠された意図が明らかになる過程は、日常の些細な違和感が大きな闇に通じることを示唆しているかのようです。

「しのぶセンセの上京」では、東京に引っ越した教え子からの手紙に不穏な気配を感じ取ったしのぶが、鉄平や原田を伴って上京します。慣れない大都会での迷走、そして元教え子の家庭で発生した誘拐事件。しかし、その誘拐にはどこか芝居がかった不自然さがつきまといます。東京という舞台を得て、登場人物たちの関係性にも変化が見え始めます。

「しのぶセンセは入院中」では、盲腸で入院したしのぶが、同室の老婆の夫が巻き込まれた強盗事件に首を突っ込みます。病室という限られた空間でのやり取りが中心となりながらも、事件は意外な展開を見せます。そして最後の二篇、「しのぶセンセの引っ越し」と「しのぶセンセの復活」では、しのぶが教職への復帰を準備する中で巻き込まれる事件と、復帰後の新たな学校生活での出来事が描かれます。「引っ越し」ではややシリアスな事件が扱われ、「復活」では教え子との関係再構築に腐心するしのぶの姿が映し出されます。

小説 しのぶセンセにサヨナラ 長文感想(ネタバレあり)

東野圭吾氏の『しのぶセンセにサヨナラ』。この題名が示す通り、これは一つの時代の終わり、あるいは少なくとも大きな転換点を示す作品と言えるでしょう。前作『浪花少年探偵団』で、規格外の情熱と直感で事件に首を突っ込んだ小学校教師・竹内しのぶは、この作品では学校を離れています。内地留学中という設定が、彼女の行動範囲を広げ、描かれる事件のスケールも若干ながら拡大させているように見えます。しかし、その本質は変わらない。相変わらず、鼻が利きすぎるのか、それとも単に厄介ごとに巻き込まれる性分なのか、行く先々で事件の臭いを嗅ぎつけ、持ち前の行動力で深入りしていくのです。

各短編は、前作同様、大阪を舞台にしたライトなミステリーといった趣です。「しのぶセンセは勉強中」で描かれる密室の謎は、いかにもこのシリーズらしい導入部です。西丸商店という企業を舞台に、転落死した販売部長の死の真相を探るしのぶ。自殺に見せかけた他殺、さらにそれを覆す真相。トリック自体はそれほど複雑ではありませんが、登場人物たちの人間関係のもつれや、企業の合理化の波に飲み込まれる人々の悲哀が背景に描かれている点は、さすがと言うべきか、単なる子供騙しではない深みを与えています。しかし、しのぶが探偵役として鮮やかに謎を解くというよりは、彼女の存在が事件を動かし、関係者の本音を引き出す触媒となっている側面が強いように感じます。彼女の無遠慮ともいえる踏み込み方が、時に事態を混乱させつつも、結果として真相にたどり着く、その成り行きを見守るしかありません。

「しのぶセンセは暴走族」は、タイトルからして既にこのシリーズの持つ独特の空気感を漂わせています。交通事故防止のために自動車学校に通うという動機は、いかにもしのぶらしい正義感の発露ですが、そこで待ち受けるのは、犬の排泄物という奇妙な伏線から始まる事件です。早朝特訓、そして日出子と若本が巻き込まれる事故。この話では、少年探偵役の鉄平や原田も積極的に絡んできます。彼らが犬の糞の謎を追うパートは、前作からの地続き感があり、シリーズファンにとっては嬉しい要素でしょう。事件の真相も、教習所の内部事情と絡んでおり、ミステリーとしての構造はしっかりしています。しかし、全体を覆うのはどこかコミカルなトーンであり、深刻な事件であるにも関わらず、読者は肩の力を抜いて読み進めることができます。しのぶが最後に車を運転して犯人を追い詰めるシーンは、このシリーズならではの、やや荒唐無稽ながらも痛快なアクション要素と言えるかもしれません。

「しのぶセンセの上京」は、舞台が大阪から東京に移ることで、シリーズに新たな風を吹き込もうとした意欲作と言えるでしょう。かつての教え子、中西雄太からの手紙をきっかけにした上京。鉄平と原田を従えて東京を闊歩するしのぶの姿は、ある種の珍道中に近いものがあります。東京で迷子になる三人の描写は、大阪の日常を離れた彼らの浮足立った様子をよく表しており、微笑ましくさえあります。中西家で起こる誘拐事件は、いかにも東野氏らしい、巧妙な仕掛けが隠されています。「環」と「還」という漢字の誤用が鍵となる真相は、読者に小さな驚きを与えます。しかし、この事件の根底にあるのは、家族の歪みであり、そこにはやや苦い現実が垣間見えます。久しぶりに登場する本間義彦との再会も、シリーズの物語的な要素を深めています。東京という異質な空間でのしのぶたちの奮闘は、このシリーズの可能性を示唆しているようでもありますが、同時に、大阪というホームグラウンドを離れたことによる、どこか根無し草のような印象も拭えません。

「しのぶセンセは入院中」は、舞台を病院という閉鎖的な空間に移した短編です。盲腸で入院したしのぶが、同室の老婆・藤野とその夫が巻き込まれた強盗事件に関わるという設定は、いささか強引な気もしますが、それこそがこのシリーズの持ち味と言えるでしょう。藤野老婆のキャラクターが非常に個性的で、病室でのやり取りがこの話の面白さの核となっています。強盗事件の真相も、意外な方向へと転がっていき、人間の欲望や打算が絡み合っている様を描き出します。ここでもまた、探偵役というよりは、しのぶの存在が事態を掻き回し、隠された真実を暴き出すという構図が見られます。本間と新藤、しのぶを巡る二人の男性のやり取りが描かれるのはこの話だけ、というのは少し残念な点です。

そして、シリーズの終盤に差し掛かる二篇、「しのぶセンセの引っ越し」と「しのぶセンセの復活」には、どこかシリーズの終焉を感じさせるものがあります。「しのぶセンセの引っ越し」で描かれる事件は、これまでの比較的軽いトーンとは異なり、ややシリアスな様相を呈しています。侵入した男を殺害した女性、そしてその男の身元がしのぶの住むアパートの住人であったという事実。計画的な殺人でありながら、その背景にある事情が考慮され、事件が処理される過程は、このシリーズの持つ「人情」という側面が強調されているとも言えますが、同時に、これまでの明るくコミカルな雰囲気からはやや逸脱しているように感じます。漆崎刑事の判断も、現実の捜査とは異なる、物語的な処理がなされているように見えます。これは、もしかしたら作者自身が、このシリーズの世界観から抜け出しつつある兆候だったのかもしれません。

最後の「しのぶセンセの復活」では、ついにしのぶが教職に復帰します。しかし、赴任した小学校での新生活は、前任の教師の影響力が強く、手強い生徒たちとの向き合いから始まります。跳び箱の事故をきっかけにした前任者の転勤。この話のミステリー要素は非常に軽微であり、むしろ教師として生徒たちとどう関わっていくかという、教育者としてのしのぶの葛藤や努力が中心に描かれています。この話には、前作からのレギュラーであった鉄平や原田が登場しないため、これまでのシリーズを特徴づけていた少年たちとのやり取りによる賑やかさは失われています。ミステリーとしての面白さよりも、竹内しのぶという人間が、再び教師という立場に戻り、新たな環境で奮闘する姿を描くことに主眼が置かれているのでしょう。読後感は悪くありませんが、シリーズ最終話としては、やや物足りなさを感じるのは否めません。まるで、長い旅の終わりに、ひっそりと駅に降り立ったような静けさです。

全体を通して見ると、『しのぶセンセにサヨナラ』は、前作で確立されたキャラクターと世界観を土台にしつつ、新たな展開を試みた短編集と言えます。しかし、前作のような弾けるような勢いや、大阪という土地に根差した独特の活気は、やや薄れているように感じられます。しのぶのキャラクターは相変わらず魅力的ですが、彼女を突き動かす動機や、事件への関わり方が、前作ほど必然的ではない場面も見受けられます。ミステリーとしては、トリックや謎解きよりも、事件に関わる人々の人間ドラマや、しのぶの行動そのものに焦点が当たっている印象です。これは、東野圭吾氏が作家として新たなステージへと進む過程で生まれた、過渡期の作品だったのかもしれません。シリーズファンにとっては、愛すべきキャラクターたちのその後を知る上で貴重な一冊ですが、単体のミステリー作品として見ると、氏の代表作に比肩するものではない、というのが正直なところです。しかし、この作品を通過することで、東野圭吾という作家が次にどのような世界を描くのか、その期待感を抱かせる、そんな役割を果たしているのかもしれません。ある意味では、未完成の美しさ、あるいは可能性の片鱗が詰まった作品と言えるでしょう。

まとめ

『しのぶセンセにサヨナラ』は、東野圭吾氏の手による、シリーズ第二作にして完結編にあたる短編集です。教職を離れ、内地留学中の竹内しのぶが、変わらぬ好奇心と行動力で様々な事件に遭遇し、その解決に(良くも悪くも)関わっていく様が描かれています。

前作『浪花少年探偵団』から引き継がれる、大阪を舞台にした軽妙な会話劇や、少年探偵たちの活躍は健在ですが、物語が進むにつれて、描かれる事件の性質やしのぶの置かれる状況にも変化が見られます。シリーズの持つ明るいトーンの中に、ややシリアスな要素が加わったり、舞台が東京に移ったりと、作者がこの世界観から次の段階へと移行しようとしている気配が随所に感じ取れます。

この作品は、熱心な東野圭吾ファン、特に『浪花少年探偵団』を楽しんだ読者にとっては、愛すべきキャラクターたちのその後を知る上で必読の一冊と言えるでしょう。しかし、純粋な本格ミステリーを期待する読者や、氏の後期の重厚な作品に慣れ親しんだ読者にとっては、やや物足りなく感じられる可能性もあります。ある意味では、過渡期の作品として、その後の東野作品へと繋がる萌芽を見出すこともできるかもしれません。