小説「お伽草紙」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

皆さんが子供の頃に親しんだであろう、あの懐かしい昔話たち。それを、文豪・太宰治が独自の視点で大胆にアレンジしたのが、この「お伽草紙」という短編集なんです。ただ昔話をなぞるのではなく、登場人物たちの心情を深く掘り下げ、現代にも通じるような人間の業や悲哀、滑稽さを描き出しています。

物語の筋書き自体は、皆さんがご存知の通りかもしれません。でも、太宰の手にかかると、瘤取り爺さんはただのお人好しではなくなり、浦島太郎の竜宮城での日々はどこか物憂げで、カチカチ山のうさぎの復讐劇は、生々しい愛憎劇へと姿を変えます。舌切り雀のお話も、単なる教訓話では終わりません。

この記事では、そんな「お伽草紙」の各編がどのような物語なのか、結末まで含めてお伝えします。さらに、私がこの作品を読んで何を感じ、どう考えたのか、かなり詳しく、ネタバレも気にせずに語っていきたいと思います。太宰治が昔話を通して何を描こうとしたのか、一緒に探っていきましょう。きっと、昔話の新しい一面を発見できるはずです。

小説「お伽草紙」のあらすじ

この作品は、太宰治が戦時下の防空壕の中で、幼い娘に日本の昔話を語り聞かせる、という体裁で書かれています。語り手である太宰自身が、昔話の登場人物や展開にツッコミを入れたり、独自の解釈を加えたりしながら物語が進んでいきます。収録されているのは「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」の四編です。

「瘤取り」では、善良なお爺さんと意地悪なお爺さんの対比が描かれます。鬼たちとの宴会で、善良なお爺さんは踊りを披露して瘤を取ってもらいますが、それを真似た意地悪なお爺さんは、逆に瘤をつけられてしまう。太宰は、鬼たちの人間臭さや、二人の爺さんの性格の違いを面白おかしく語ります。

「浦島さん」では、亀を助けた浦島太郎が竜宮城へ行くお馴染みの話ですが、太宰流の解釈が加わります。亀は妙に饒舌で理屈っぽく、乙姫様は退屈を持て余した、どこか倦怠感のある女性として描かれます。竜宮城でのきらびやかながらも空虚な日々、そして故郷へ戻った浦島を襲う絶望的な孤独感が、印象的に語られます。玉手箱の煙が、単なる老化現象ではなく、失われた時間そのものの重みとして描かれているかのようです。

「カチカチ山」は、特に太宰の解釈が色濃く反映された一編です。老婆を残酷な方法で殺した狸を、兎が執拗な復讐で追い詰めていく物語。太宰は、兎を可憐な少女、狸をその少女に恋い焦がれる醜い中年男という構図に置き換えます。兎の狸に対する残虐な仕打ちは、単なる仇討ちではなく、美しい少女が醜い男からの好意を徹底的に拒絶し、嫌悪する心理として描かれます。「惚れたが悪いか」という狸の最期の叫びが、やるせない響きを残します。

「舌切雀」では、お爺さんとお婆さんの関係性がより深く描かれます。優しいお爺さんは雀を可愛がり、欲張りなお婆さんは雀の舌を切ってしまう。お爺さんは雀のお宿で歓待されますが、お婆さんは大きな葛籠を選んで恐ろしい目に遭います。太宰は、お婆さんの強欲さだけでなく、その根底にあるかもしれない孤独や不満にも少し触れながら、物語に奥行きを与えています。

小説「お伽草紙」の長文感想(ネタバレあり)

太宰治の「お伽草紙」、これは本当に面白い作品ですよね。誰もが知っている昔話を、ここまで人間臭く、そしてある意味で生々しく描き直してしまうなんて、さすが太宰治、と思わず唸ってしまいます。単なる昔話のパロディというわけではなく、それぞれの物語の中に、人間のどうしようもない性(さが)や、普遍的な感情が巧みに織り込まれているように感じました。

まず、作品全体を貫いているのは、太宰治自身の「語り」の存在です。彼は防空壕の中で、娘に語り聞かせるという設定で筆を進めていますが、その語り口が実に独特。昔話の登場人物に対して、「君ねえ」なんて馴れ馴れしく話しかけたり、物語の展開に「これはおかしい」とツッコミを入れたり、現代的な視点からの解釈を披露したり。この太宰自身の声が、作品に独特のリズムと深みを与えていると思います。読者は、太宰と一緒に昔話を読み解いているような、そんな不思議な感覚に引き込まれます。

収録されている四つの話は、どれも甲乙つけがたい魅力がありますが、特に印象に残ったのは、やはり「カチカチ山」でしょうか。この話の解釈は、鮮烈でした。元々の昔話も、お婆さんを殺して汁にして食べさせるという、かなり残酷な内容ですが、太宰はその残酷さの根源を、男女間の愛憎、特に「美しさ」と「醜さ」の対立に見出しています。

兎を「うぶな、優しい、十五、六の処女」として描き、対する狸を「醜い、四十ちかい年配の、むさくるしい、慾張り」な男として設定する。この時点で、もう物語の様相は一変しますよね。狸の、老婆を殺してしまったことへの後悔の念など微塵もなく、むしろそれを武勇伝のように兎に語って聞かせようとする厚顔無恥さ。そして、そんな醜悪な狸に言い寄られる兎の、生理的なレベルでの激しい嫌悪感。この描写が、本当に見事なんです。

兎が狸を懲らしめる一連の行為、背中に火をつけ、火傷にからし味噌を塗り込み、最後は泥の舟で沈める。これは単なる復讐というよりも、醜いもの、不快なものに対する徹底的な排除の意志の表れのようです。読んでいると、狸の愚かさや醜さに呆れつつも、兎の冷徹さ、残酷さにもゾッとさせられます。美しいものが、醜いものに対して抱く嫌悪感は、時にこれほどまでに無慈悲になり得るのかと。

そして、あの有名な結びの言葉、「惚れたが悪いか」。湖の底に沈みゆく狸が、最後に絞り出すこの一言。これは、本当に重い言葉だと思います。狸の行動は決して許されるものではありませんが、この言葉には、報われない想い、理解されない苦しみ、そして理不尽な仕打ちへの抗議が凝縮されているように感じられます。太宰は、恋愛における、あるいは人間関係における、どうしようもない断絶や悲劇を、この一言に託したのかもしれません。醜い中年男が美しい少女に恋をする、その「不釣り合い」が生む悲劇。これは、現代社会にも通じる普遍的なテーマではないでしょうか。

もちろん、他の話も素晴らしい。「瘤取り」では、鬼たちの宴会の描写が生き生きとしていて、まるでその場にいるかのような臨場感があります。善良な爺さんと意地悪な爺さんの対比も、人間の持つ善と悪、欲の深さを考えさせられます。鬼が瘤を取る理由、つける理由が、実に人間的(?)で面白いですよね。

「浦島さん」の解釈も、心に沁みます。助けられた亀が、やたらと理屈っぽく、浦島を言いくるめてしまうあたり、太宰らしいひねりが効いています。そして、竜宮城での乙姫様の描写。彼女は、ただ美しいだけの存在ではなく、永遠の時の中で退屈しきっている、どこか虚無感を漂わせた女性として描かれています。「人間なんて、どこへ行っても同じようなものですよ」といった諦観にも似た言葉が、印象的です。浦島が故郷に戻って感じる絶望的な孤独感は、時間の残酷さ、そして変化してしまった世界に取り残される人間の悲しみを、深く描き出しているように思えます。玉手箱は、単に年を取らせるだけでなく、彼が生きていた時代の全てを消し去る象徴なのかもしれません。

「舌切雀」も、単なる勧善懲悪の話では終わりません。優しいお爺さんと欲張りなお婆さん、という構図はそのままですが、太宰はお婆さんの行動の裏にあるかもしれない、満たされない心や孤独といった側面にも、少しだけ光を当てているように感じます。雀のお宿での描写は、どこか幻想的でありながら、やはり人間社会の縮図のようにも見えます。最後の、お婆さんが大きな葛籠を選んで恐ろしい目に遭う場面は、自業自得とはいえ、人間の欲深さが招く悲劇を象徴しているようで、少し後味が悪いというか、考えさせられる結末です。

この「お伽草紙」が書かれたのは、太平洋戦争の末期、空襲が激しくなる中で、太宰が防空壕に避難していた時期だと言われています。そんな極限的な状況の中で、なぜ彼は昔話を選び、このような形で語り直したのでしょうか。そこには、現実の過酷さから一時的に逃避したいという気持ちもあったのかもしれません。しかし、同時に、どんな状況下にあっても変わらない人間の本質、愚かさや愛おしさ、悲しさといったものを、昔話という普遍的な器を通して描き出そうとしたのではないか、とも思うのです。

太宰治というと、破滅的な生き方や暗い作風が注目されがちですが、「お伽草紙」を読むと、彼の人間に対する温かい(?)眼差しや、物事を斜めから見る独特の感覚、そして語りの巧みさを改めて感じることができます。昔話を知っているからこそ、そのアレンジの妙にニヤリとさせられたり、登場人物たちの意外な一面に驚かされたり。それでいて、読後には、人間の持つ普遍的なテーマについて、深く考えさせられる。

時代を超えて読み継がれる古典や昔話が持つ力を、太宰治というフィルターを通して再認識させてくれる、そんな作品だと思います。子供の頃に読んだ昔話とは全く違う、大人のための「お伽草紙」。まだ読んだことがない方には、ぜひ一度手に取ってみてほしいですね。きっと、昔話の世界が、より深く、そして複雑な色合いをもって見えてくるはずです。そして、太宰治という作家の、底知れない魅力に触れることができるでしょう。

まとめ

太宰治の「お伽草紙」は、誰もが知る日本の昔話を、彼ならではの視点と語り口で再構築した短編集です。単なる焼き直しではなく、登場人物たちの心理を深く掘り下げ、現代にも通じる人間の普遍的な感情や業(ごう)を描き出しています。

瘤取り爺さんの人の良さと欲深さ、浦島太郎が竜宮城で感じたであろう倦怠と故郷での絶望、カチカチ山の兎と狸の関係性に潜む美醜と愛憎、舌切り雀のお婆さんの強欲の裏にあるかもしれない孤独。それぞれの物語が、太宰の解釈によって新たな生命を吹き込まれ、読者に深い問いを投げかけます。

特に「カチカチ山」における、可憐な少女(兎)と醜い中年男(狸)という設定は鮮烈で、「惚れたが悪いか」という狸の最期の言葉は、恋愛や人間関係における理不尽さや悲劇性を象徴しているかのようです。戦時下という特殊な状況で書かれたこの作品には、太宰自身の声とも言える独特の語りが散りばめられ、読者を不思議な読書体験へと誘います。

昔話の新たな面白さを発見できると同時に、太宰治という作家の奥深さにも触れることができる一冊です。子供の頃とは違う視点で、もう一度、昔話の世界を旅してみてはいかがでしょうか。きっと、忘れられない読書体験になるはずです。