小説「おいしい水」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。この物語は、神戸を舞台に、少し背伸びをしたい年頃の少女が、ミステリアスな青年と出会い、大人の世界のほろ苦さや切なさを知るひと夏の出来事を描いています。

原田マハさんの手にかかると、日常の風景や何気ない会話が、まるで一篇の詩のように美しく、そして時に鋭く胸に迫ってきます。「おいしい水」も例外ではなく、主人公の心の揺れ動きが丁寧に描写されており、読者はいつしか彼女と一緒に神戸の街を歩き、同じように胸を高鳴らせ、そして涙することでしょう。

この記事では、そんな「おいしい水」の物語の核心に触れながら、その魅力を余すところなくお伝えしたいと思います。物語の結末にも言及しますので、まだお読みでない方はご注意ください。そして、読み終えた方が共感し、新たな発見をしていただけるような、深い考察を交えた感想をお届けします。

神戸の風景、写真の持つ力、そして不器用ながらも懸命に生きる登場人物たちの姿。読み終わった後、きっとあなたの心にも「おいしい水」のように、清らかで、そして少ししょっぱい何かが残るはずです。それでは、原田マハさんの「おいしい水」の世界へ、一緒に旅を始めましょう。

小説「おいしい水」のあらすじ

岡山から神戸の大学へ進学した安西は、周囲の華やかな学生たちに馴染めず、どこか孤独を感じる日々を送っていました。そんな彼女が偶然見つけたのが、元町の裏通りにある輸入雑貨と写真集を扱う店「スチール・アンド・モーション」。店主のナツコは洗練された大人の女性で、安西にとって憧れの存在となります。ナツコに誘われ、安西はその店でアルバイトを始め、写真集に囲まれる穏やかな時間を過ごしていました。

ある日、安西はアルバイト先で購入したロベール・ドアノーの写真集を手に、行きつけのコーヒーショップ「エビアン」を訪れます。そこで、いつも奥の席でスライド写真を眺めている「べべ」と呼ばれるミステリアスな青年に出会います。以前から彼の存在が気になっていた安西は、勇気を出して声をかけ、写真集をプレゼントします。これが二人の出会いでした。

翌日、べべは「スチール・アンド・モーション」に現れ、写真集を購入していきます。それからというもの、安西とべべは神戸の街の様々な場所で待ち合わせをし、ただ一緒に歩くだけの時間を重ねるようになります。安西は自分のことを少しずつ話しますが、べべは本名も年齢も、どこに住んでいるのかも教えてくれません。ただ、彼が時折見せるプロのカメラマンのような鋭い眼差しや、どこか影のある雰囲気に、安西はますます惹かれていきます。

そんな中、安西はべべが「エビアン」でフクダと名乗る中年男性から大金を受け取っている場面を目撃してしまいます。フクダは、「スチール・アンド・モーション」が入っているビルのオーナーであり、神戸の裏社会にも通じている危険な人物でした。さらに、ナツコから店の経営が苦しく、来年の2月には閉店しなければならないことを告げられます。安西は、べべがフクダに何らかの形で束縛されているのではないかと直感します。

安西はべべに、フクダから離れて自由になってほしい、好きな写真を撮ってほしいと涙ながらに訴えます。べべは何も言わず、ただ涙を流す安西にカメラを向け、シャッターを切り続けました。実は、べべにはかつて愛した女性がいましたが、フクダによってその命を奪われたという悲しい過去があったのです。これ以上、大切な人を危険に晒したくないという想いからか、その日を境に、べべは安西の前から忽然と姿を消してしまいます。

季節が巡り、大学の新学期が始まった頃、安西のもとにナツコから連絡が入ります。「スチール・アンド・モーション」が閉店し、ビルが取り壊される日に、店の前に黒いカメラケースが置かれていたというのです。安西が待ち合わせ場所の「エビアン」へ駆けつけると、そこには少しふっくらとし、新しい生活に向けて歩き出そうとしているナツコの姿がありました。ナツコからカメラケースを受け取った安西が震える手で開けると、中には神戸の美しい風景を捉えた写真の数々と共に、あの日の安西の泣き顔を写した一枚の写真が収められていました。その写真を見つめる安西の頬を、しょっぱい雫が伝うのでした。

小説「おいしい水」の長文感想(ネタバレあり)

原田マハさんの「おいしい水」は、読後、心の奥深くに清冽ながらもどこか切ない余韻を残す物語でした。まるで、暑い日に喉を潤す一杯の水のように、しかしその水には一筋の涙が溶け込んでいるかのような、そんな複雑な味わいです。神戸という異国情緒あふれる街を背景に、一人の少女の心の成長と、淡くも激しい恋の行方が描かれます。

主人公の安西は、19歳という多感な時期特有の、大人への憧れと現実とのギャップに揺れる少女です。周囲の華やかな女子大生たちに馴染めず、どこか疎外感を抱えている彼女が、元町の路地裏で見つけた「スチール・アンド・モーション」は、まさに彼女にとっての聖域であり、未知の世界への扉でした。店主のナツコさんの洗練された雰囲気、そしてそこに集う人々が醸し出す空気感は、安西にとって抗いがたい魅力を持っていたことでしょう。

ナツコさんの存在は、安西にとって大きな道しるべとなります。彼女の言葉や振る舞いから、安西は少しずつ大人の世界の価値観や美意識を学んでいきます。写真集を通して語られる海外の写真家たちの名前や作品は、安西の知的好奇心を刺激し、彼女の世界を広げてくれました。この店でのアルバイトは、単なる労働ではなく、安西にとって自己を形成するための重要な時間だったと感じます。

そして、物語の核心を担うのが、べべという青年の存在です。彼のミステリアスな雰囲気、影のある過去、そして写真にかける情熱は、安西の心を強く捉えます。べべとの出会いは、安西にとって初めての本格的な「恋」の始まりと言えるでしょう。彼と過ごす何気ない神戸の街歩きの時間は、安西にとってかけがえのない宝物のような瞬間だったはずです。ただ隣を歩くだけで満たされる、そんな純粋な想いがひしひしと伝わってきます。

しかし、べべの背後にはフクダという不穏な影がちらつきます。フクダは、金と力で人を支配しようとする、まさにべべとは対極の存在として描かれています。彼によって、べべがどれほど深く傷つき、自由を奪われているのかが徐々に明らかになるにつれて、読者の胸は締め付けられます。べべが過去に愛した女性をフクダに奪われたという事実は、彼の抱える闇の深さを物語っており、安西への想いを秘めたまま姿を消すという彼の選択に、切ない説得力を与えています。

安西がべべに「自由になってほしい」と訴える場面は、物語のクライマックスの一つです。彼女の純粋な叫びは、べべの心を揺さぶったことでしょう。しかし、べべは安西を守るために、そしておそらくはこれ以上フクダの魔の手が及ばないようにするために、彼女の前から去ることを選びます。この別れは、安西にとってあまりにも突然で残酷なものでしたが、同時に彼女を一つ大人へと成長させる試練でもあったのだと思います。

物語の終盤、ナツコさんから託されたカメラケースを開ける場面は、涙なしには読めませんでした。そこには、べべが愛した神戸の街並み、そして、あの日の安西の泣き顔の写真が収められていました。べべは、安西への想いを声に出す代わりに、彼が最も得意とする写真という形で伝えたのです。それは、言葉以上に雄弁な、愛の告白であり、別れのメッセージでもありました。

あの泣き顔の写真は、安西にとって、べべとの短いけれど濃密な時間の証であり、同時に、彼の苦悩と愛情の深さを物語るものでした。その写真を見つめながら流す安西の涙は、悲しみだけでなく、べべへの感謝、そして彼との思い出を胸に生きていこうとする決意の涙だったのではないでしょうか。「テーブルの上に落ちた一滴のしょっぱい水」という表現は、この物語のテーマを見事に凝縮しています。それは、人生のほろ苦さであり、涙の味であり、そしていつか喉の渇きを癒してくれる「おいしい水」でもあるのです。

この物語を通して、原田マハさんは「写真」というモチーフを巧みに使っています。写真は、時を止め、記憶を焼き付け、言葉にならない想いを伝える力を持っています。べべにとって写真は生きる証であり、安西にとっては世界を広げる窓であり、そして二人を繋ぐ絆でもありました。ドアノーやフランクといった実在の写真家の名前が登場することも、物語に深みとリアリティを与えています。

また、舞台となる神戸の街の描写も非常に魅力的です。異人館、トアロード、海岸通りといった具体的な地名と共に描かれる風景は、まるで読者自身がその場にいるかのような臨場感を与えてくれます。お洒落でありながらも、どこかノスタルジックな神戸の雰囲気は、安西とべべの切ない物語にぴったりの背景でした。

ナツコさんの役割も重要です。彼女は安西にとって憧れのお姉さんであり、良き相談相手であり、そして最後にはべべからのメッセージを届けるキューピッドのような存在でもありました。彼女自身の人生もまた、決して平坦なものではなかったことが示唆されており、その強さと優しさが、安西を支えたのだと思います。

フクダのような存在は、現実社会にも確かに存在する「悪意」や「不条理」の象徴なのかもしれません。しかし、そんな困難な状況の中でも、人は誰かを愛し、希望を見出し、ささやかな幸せを求めて生きていく。べべが残した写真と、それを受け取った安西の姿は、そんな人間の強さと美しさを教えてくれるようです。

この物語は、明確なハッピーエンドではありません。べべと安西が再び会えるのかどうかは描かれていません。しかし、安西はべべとの出会いと別れを通して、確実に成長しました。彼女はもう、かつての孤独な少女ではありません。胸に秘めた大切な思い出と、しょっぱい水の味を知った彼女は、きっとこれから自分の足でしっかりと人生を歩んでいくことでしょう。

読み終えた後、ふと「おいしい水」というタイトルについて考えました。それは単に喉を潤す水ではなく、人生における様々な経験、喜びも悲しみも、甘さも苦さも含んだ、味わい深い「生の体験」そのものを指しているのかもしれません。そして、その経験こそが、人を成長させ、人生を豊かにするのだと、この物語は静かに語りかけているように感じました。原田マハさんの作品は、いつも私たちに日常の中にある美しさや、人の心の機微を気づかせてくれますが、「おいしい水」もまた、心に深く染み入る名作の一つと言えるでしょう。

まとめ

原田マハさんの小説「おいしい水」は、神戸を舞台に、多感な19歳の少女・安西が、謎めいた青年べべとの出会いを通じて、恋のときめき、大人の世界の厳しさ、そして切ない別れを経験し成長していく物語です。物語の核心に触れる情報や、読後の深い印象について、この記事では触れてきました。

物語の結末は、決して甘いものではありません。しかし、べべが残した一枚の写真は、安西にとって忘れられない記憶となり、彼女のその後の人生において大きな意味を持つことになるでしょう。それは、痛みと共に得た、かけがえのない「おいしい水」のような経験と言えるかもしれません。読者は、安西の心の旅路を追体験することで、自身の青春時代を思い出したり、大切な人との出会いの意味を考えさせられたりするのではないでしょうか。

原田マハさん特有の美しい文章と、神戸の街並みの魅力的な描写が、この切ない物語を一層引き立てています。登場人物たちの繊細な心の動きが丁寧に描かれており、特に主人公・安西の心情には多くの読者が共感を覚えることでしょう。写真というモチーフが効果的に使われ、物語に深みを与えています。

この記事を通じて、「おいしい水」がどのような物語で、どのような感動を与えてくれるのか、その一端でもお伝えできていれば幸いです。まだ読んだことのない方にはぜひ手に取っていただきたいですし、既に読まれた方には、新たな視点や共感のポイントを見つけていただけたなら嬉しく思います。