小説「ある男」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
平野啓一郎の「ある男」は、亡くなった夫が「まったく別の人間だった」と判明するところから始まる物語です。タイトルどおり、ここに描かれるのは特定の誰かではなく、「ある男」としか呼びようのない存在をめぐるドラマです。
「ある男」は、戸籍を買って別人として生きていた男性をめぐるミステリーとしても読めますが、その仕掛けは、人が名前や戸籍といった制度でしか把握されない社会のあり方を照らし出すための装置になっています。依頼を受けて真相を追う弁護士・城戸の視線を通して、「人は誰か」という古くて新しい問いが立ち上がってきます。
同時に「ある男」は、残された妻・里枝の物語でもあります。自分が愛してきた夫は、過去のどんな罪を隠し、どんな人生を捨てて、目の前の家族になろうとしたのか。あらすじを追うだけでは言い尽くせないのは、彼女の感情が非常に細やかに描かれ、その揺らぎがこちらの心にも波紋のように広がってくるからです。
ネタバレを含む部分では、なぜその男が別人として生きる決意をしたのか、そして城戸自身の出自の問題がどのように響き合っていくのかが明らかになっていきます。「ある男」を読み終えたあと、私たちは、他人だけでなく自分自身についても、「自分は誰なのか」「自分の名は何を保証しているのか」という問いを突きつけられたまま、しばらく立ち尽くすことになるはずです。
「ある男」のあらすじ
物語の舞台は、地方都市の文具店で穏やかな再婚生活を送っていた里枝の現在から始まります。彼女の傍らにいる夫は、かつて画家を志し、今は真面目に働きながら、里枝とその連れ子に深い愛情を注いでいる男性です。里枝にとって、その男は、前の結婚生活で深く傷ついた心をようやく癒やしてくれた大切な存在でした。
ところがある日、その男が不慮の事故で命を落としてしまいます。突然の死に打ちひしがれながらも、里枝は葬儀を執り行い、夫の人生を振り返ろうとしますが、その過程で奇妙な事実に気づきます。役所から送られてきた書類や、親族とのやり取りから、夫の戸籍や出自について食い違いが見つかり、「本当にこの人は誰だったのか」という疑いがじわじわ膨らんでいきます。
里枝はかつて離婚問題で世話になった弁護士・城戸に相談し、「死んだ夫がどこの誰だったのか」を調べてほしいと依頼します。城戸は戸籍、住民票、関係者の証言を丹念に追いかけ、やがて「夫が名乗っていた人物」は別の場所で生きていること、つまり里枝の前にいた男は他人の戸籍を買っていた「別人」だったことを突き止めます。
以後のあらすじでは、城戸がその男の足跡を遡るようにして、彼がもともとどんな名前を持ち、どんな過去を抱えていたのかが少しずつ明らかになっていきます。同時に、在日コリアンとして微妙な立場に立つ城戸自身の生い立ちも重ねて描かれ、名前や血筋、国籍といったものが、人の生をどのように縛り、あるいは支えているのかが問われていきます。ただし、男の正体と、彼がなぜ他人の人生を生きることを選んだのか、その核心部分は物語の終盤に用意されており、この段階ではまだ決定的な真相には届きません。
「ある男」の長文感想(ネタバレあり)
ここからは物語の核心に触れるネタバレを含む感想になります。まず強く感じたのは、「ある男」が「名を変えて逃げる男」の物語であると同時に、「自分の名から逃げられない男」の物語でもあるということです。戸籍を買い、別人として生きた男性は、表面上は過去を断ち切ったように見えますが、その選択は決して完全な自由ではなく、罪悪感や不安を引き受けながらの綱渡りでした。
里枝が愛した「ある男」は、かつて暴力的な夫として家族を傷つけた過去を持ち、その負い目から逃れるために他人の名前を引き受けます。ネタバレ部分で描かれるのは、彼が「もう一度、別の誰かとしてまっとうに生きたい」という切実な願いを抱いていたことです。彼は、自分の名と過去を捨てさえすれば、新しい人生が手に入ると信じたのかもしれません。しかし、読者としてその経緯を知るとき、私たちは彼の行為を単純に「贖罪」か「逃避」かで裁くことができず、宙吊りの感情に置かれます。
一方で、城戸という語り手の存在が、「ある男」の物語をいっそう重層的なものにしています。城戸自身が在日コリアンであり、幼い頃から名前や出自にまつわる偏見や差別を受けてきた人物として描かれます。表向きは日本名で仕事をしながら、「本名」で呼ばれる場面では、微妙な疎外感や緊張が生まれる。その経験を持つ城戸だからこそ、「他人の戸籍を買って生きる」という行為に対して、単なる犯罪以上の複雑な意味を読み取ってしまうのです。
ここで印象的なのは、「あらすじ」で追った出来事の一つ一つが、城戸の内面を照らし返す鏡になっている点です。依頼人である里枝のために真相を究明するという職務上の使命感と、自分の中の「名に縛られた経験」が結びついてしまい、調査はいつしか彼自身の過去と向き合う旅へと変わっていきます。その過程で、彼は家族との関係や、自分がどこまで本心を語ってこなかったのかを振り返らざるをえなくなります。
ネタバレの核心に近づくにつれて、「ある男」の構図は、単なる戸籍ロンダリングの物語から、「人はどこまで過去から逃れられるのか」という普遍的な問いへと変貌していきます。男は、暴力を振るったかつての自分を嫌悪し、その名を捨てて別人として生きる道を選んだ。しかし、別人として生きている間に築いた里枝との生活の中で、彼は確かに優しい夫であり、よき父であろうとします。読者は、「過去の罪を犯したその人」と「里枝の前にいたその人」が、同じひとりの人間であることに戸惑わされます。
里枝の視点に立つと、「私は誰を愛していたのか」という問いが胸に迫ります。事故で亡くなった直後、彼女が抱えていたのは、ごく普通の喪失感でした。ところが、夫の戸籍が偽物だったと判明した瞬間、それは「愛した人の正体がわからない」という、質の異なる喪失へと変質します。彼女にとっての悲劇は、夫が過去に暴力をふるったこと以上に、「夫の人生を自分は何も知らなかったのかもしれない」という絶望に近い感覚なのだと伝わってきます。
同時に、「ある男」は、司法や戸籍制度の冷たさも鮮やかに浮かび上がらせます。戸籍上の記号としては「不正な手続き」に過ぎない行為も、その裏には、逃げ場をなくした人間の苦悩や、やり直したいという強い願いが横たわっています。城戸はその矛盾に向き合いながら、職業倫理と人間への共感のあいだで揺れ続けます。この二重の視線があるからこそ、物語のあらすじは単なる事件の経過報告にとどまらず、「制度と個人」の衝突を描く作品へと広がっていきます。
また、城戸自身の家庭が物語に組み込まれている点も、「ある男」を深い読後感へと導いています。彼の妻はキリスト教的な価値観を持ち、赦しや救済について語りますが、城戸はそれをどこか他人事のように聞いてしまう。その距離感が、「罪を犯した者にやり直しの機会は与えられるべきか」というテーマと響き合います。男の過去を知ったあとでも、里枝が彼との生活を決して「全部嘘だった」と切り捨てきれない姿は、単純な善悪を超えた領域に読者を連れていきます。
ネタバレとして重要なのは、城戸が最終的に「どこまで真実を告げるか」を、自分の裁量で決めざるをえない場面です。里枝に対して、男の暴力の過去や、元の家族のことを、どこまで伝えるのか。読者は、その決断を前にして、「真実を知る権利」と「知らないままでいてもよい権利」のあいだで揺れ動く城戸の姿を見つめることになります。その揺らぎこそが、この作品の倫理的な核心に思えました。
「ある男」のタイトルは、無名性を強く感じさせます。特定の固有名ではなく、「ある」としか言えない誰か。その匿名性は、物語の中で、戸籍をすり替えた男一人を指すだけでなく、「名前を持ちながらも、いつでも社会から見えにくくされてしまう人々」をも象徴しているように思えます。城戸が在日コリアンとして抱える感覚や、地方で静かに生きる人たちの姿が重なり、読者は「自分もまた、誰かにとっての『ある男』『ある女』に過ぎないかもしれない」と感じさせられます。
物語の構成面で見ると、「ある男」はミステリー的な緊張感と、思想的な問いを投げかけるパートが、かなり大胆に組み合わされています。真相究明の流れは、一見すると王道のあらすじに沿って進みますが、城戸の内面描写が挿入されることで、事件としてのテンポよりも、「考える時間」が意図的に長くとられています。このゆっくりとした歩みが、読者にとっては、ときに重さとして感じられる一方で、作品のテーマにふさわしい質量を与えているようにも思いました。
描写の細やかさも印象に残ります。地方都市の冬の冷たい空気、文具店のささやかな温もり、法廷や役所の硬質な雰囲気が、淡々とした筆致で綴られていきます。そこに大げさな感傷はなく、それぞれの場面に流れる空気が、静かに人物の心を映し出しているようでした。里枝が夫の手紙や遺品を前にして立ち尽くす場面などは、声に出して感情を吐露しない分だけ、読者の側に想像する余地を残してくれます。
「ある男」が優れているのは、「加害者」と「被害者」という単純な構図に収まらないところです。暴力をふるった過去を持つ男は、もちろん許されない行為をしてきた人物です。しかし、戸籍を変えてからの彼は、懸命に働き、里枝たちを大切にしようとしていた。そのギャップを前にして、読者は「過去の罪を犯した人間に、第二の人生は許されるのか」という問いと向き合うことになります。簡単に結論が出ないからこそ、読後も長く考え続けてしまうのです。
城戸が自分自身のルーツと向き合うくだりも、非常に印象的でした。彼は、在日としての自覚をどこかで「見えにくく」して生きてきましたが、「ある男」の調査を進めるうちに、「自分の方こそ、社会に対して本当の名や姿をどこまで見せているのか」という問いに晒されます。その揺れが、男の戸籍の問題と交差することで、「名を偽ること」と「名を隠すこと」の差が、単純な善悪では切り分けられないことが浮かび上がります。
終盤、城戸がある決断を下し、物語が静かに幕を閉じるとき、「ある男」というタイトルの意味が、改めて胸に迫ってきます。誰かの過去をすべて知ることはできないし、自分の過去でさえ、語るたびに少しずつ変容していく。結局のところ、私たちは互いのことを「ある男」「ある女」としてしか理解できないのかもしれない。それでも、日々誰かを愛し、一緒に暮らし、手を取り合って生きていく。その営みの尊さを、作品は静かに肯定しているように感じました。
読み終えたあと、「あらすじ」を説明するだけでは到底足りない、複雑な感情が胸に残りました。暴力と後悔、名を変えることで得たささやかな幸福、真実を知ってしまった人々の苦しみ。それらが絡み合いながらも、「ある男」は、どこかで人間を信じようとするまなざしを失ってはいません。決して甘くはないけれど、厳しさの奥に、ほんのわずかな希望が灯っているように思えるのです。
ネタバレを前提に細部を読み返すと、冒頭からすでに「この男は誰なのか」という不穏な影が、ささやかな描写に潜んでいることにも気づかされます。名前の呼び方や、過去について語るときのためらい、ちょっとした表情の変化。その一つ一つが、真相を知ったあとには、まったく違った重みを帯びて胸に響いてきます。物語を読み返す楽しみがある作品だと感じました。
「ある男」は、物語としての面白さと、現代社会への鋭い視線が、自然に結びついた一冊です。誰かの戸籍を売買するという出来事は、ニュースの片隅に追いやられがちな話題かもしれません。しかし、この作品は、その向こう側にいる一人ひとりの人生と感情を丁寧に掬い上げ、「名前」「血」「国籍」といったものに左右される私たちのあり方を、静かながらも強い力で問い直してきます。
最後に、「ある男」を読むことは、自分自身のことを考え直す時間にもなりました。自分の名をどう受け止めてきたのか、家族や友人は自分のどの部分を見ているのか、もし自分が過去をやり直せるとしたら何を捨て、何を残すのか。物語のあらすじをなぞるうちに、そうした問いが自然と浮かび上がり、読み終えたあともしばらく、頭から離れませんでした。
ネタバレを踏まえて考えると、「ある男」が描いているのは、究極的には「名前の向こう側にいる、その人そのもの」に目を向けようとする態度ではないでしょうか。過去の罪や出自をめぐる複雑さを決して隠さず、それでもなお、今ここにいる人間をどう受け止めるのか。その難しさと尊さが、この作品の余韻として長く残り続けます。
まとめ:「ある男」のあらすじ・ネタバレ・長文感想
ここまで、「ある男」の物語を振り返りながら、あらすじとネタバレを交えた長めの感想を書いてきました。再婚した夫が実は別人だった、という衝撃的な設定は、一見すると事件小説のようですが、その内側には、名前と戸籍に縛られた社会で生きる人間の苦悩が深く刻まれていました。
里枝が愛した「ある男」は、暴力の過去から逃げるために他人の名を名乗り、別の人生を歩み始めた人物でした。その事実を知ったあとでも、彼女は、共に過ごした時間まで偽りだったとは言い切れない。城戸の視点と重ねて読んでいくと、「真実を知ること」と「それでも誰かを信じたい気持ち」のあいだで揺れる人間の姿が、胸に迫ってきます。
また、在日コリアンとして生きる城戸の内面が描かれることで、この物語は「他人の戸籍を買った男」の物語を越え、「名前を持って生きること」そのものへの思索へと広がっていました。制度としての戸籍と、個人としての生の手触りの差、そのギャップが、物語の随所で鋭く照らし出されています。
「ある男」は、読後に残る余韻が非常に長い作品です。あらすじだけを追っても十分に興味深いのですが、ネタバレ前提で細部を味わうことで、登場人物たちの葛藤や選択の重みが、さらに鮮明になっていきます。名前、過去、罪と赦しについて考えたいとき、何度でも読み返したくなる一冊だと感じました。











