小説『獣の戯れ』のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文の感想も書いていますので、どうぞ。
三島由紀夫が描く『獣の戯れ』は、扇情的なタイトルとは裏腹に、静かで高雅な筆致で綴られる物語です。通常の時間軸とは異なり、まず事件の悲劇的な結末、つまり三人の主要人物の運命を象徴する三つの墓標の描写から始まります。これは能の「夢幻能」の手法、特に「求塚」のパロディだとされ、読者は冒頭から「なぜ三つ並びの墓標になったのか」という人間の謎に直面させられます。この冒頭の提示は、物語全体が過去の出来事を回顧する「幽霊能」の形式を取ることを示唆しているのです。
この物語構造は、読者の物語への関わり方を根本的に変容させます。一般的な小説が「何が起こるのか」というサスペンスに焦点を当てるのに対し、『獣の戯れ』は、結末が既に提示されているため、「なぜその結末に至ったのか」「どのようにしてその運命が紡がれたのか」という根源的な問いへと読者の関心を誘導します。この手法は、古典的な悲劇や能楽に見られる運命論的な視点と共通しており、登場人物たちの行動が単なる自由意志の結果ではなく、ある種の避けられない宿命によって導かれているかのような感覚を読者に与えます。
これにより、物語は単なる犯罪の顛末ではなく、人間の欲望、運命、そして愛の深遠な探求へと昇華されるのです。三島由紀夫が『獣の戯れ』で描きたかったのは、社会の規範から逸脱した場所で形成される、美しくも狂気に満ちた関係性の可能性だったのかもしれません。この作品は、私たちの常識を揺さぶる、まさに文学的な挑戦と言えるでしょう。
小説『獣の戯れ』のあらすじ
物語は、西伊豆の泰泉寺の墓地に並ぶ三つの新しい墓石の描写から幕を開けます。中央には草門優子の寿蔵(生前に建てられた墓)が据えられ、その右に夫である草門逸平の墓、そして左に幸二の墓が建てられています。この独特な配置は、彼らの倒錯した関係性と、死によって結びつけられた絆を象徴的に示しています。墓石に刻まれた朱色が、優子が常に彩っていた「濃い目の口紅」を思わせるという描写は、彼女の強烈な個性が死後もなお残ることを暗示し、物語の象徴性を冒頭から強調します。
「私」と称される民俗学の学徒が伊呂村を訪れ、泰泉寺の住職である覚仁和尚と出会います。和尚は、この三人の墓が建てられた経緯、そして二年前の事件について語り始めます。この「私」は、能におけるワキ(旅の僧など)の役割を担い、読者の代理として物語の真相を探る役割を果たします。この導入は、物語が単なる事件の顛末ではなく、より深い人間心理と運命を探求する文学的な対象であることを示唆しています。
物語は、幸二が草門夫妻と出会い、彼らの関係に深く巻き込まれていく二年前の出来事へと遡ります。幸二は親も兄弟も親戚もなく、親の遺産で大学に通う快活で激しやすい21歳の青年でした。彼は草門逸平と優子夫妻が銀座で営む西洋陶磁店でアルバイトをしていたのです。逸平は知的なディレッタントでありながら、女性関係が奔放な退廃的な遊び人でもありました。
ある日、幸二は逸平の浮気現場に優子を連れていきますが、逸平はすがりついて哀願する優子を逆に殴りつけます。この逸平の行動に怒りを燃やした幸二は、その場にあったスパナで逸平を殴りつけ、彼を半身不随かつ失語症の身にしてしまいます。幸二はこの行為により逮捕され、2年間の刑期を終えることになります。
幸二の出所後、物語の舞台は西伊豆へと移り、三人の男女による極めて特異な共同生活が始まります。服役を終えて出所した幸二を、優子が伊豆の別荘に迎え入れるという驚くべき決断を下すのです。別荘では、半身不随で失語症となり、常に「放心したような微笑」を浮かべる逸平がいました。三人の同棲生活は、一般的な家庭生活とはかけ離れた、静寂と緊張に満ちたものでした。
ある日、幸二が逸平を散歩に連れ出した際、幸二は優子を深く愛していることを逸平に告白します。そして、「あんたは何を望んでいるのか」と詰問します。この問いに対し、逸平はただ一言、「死。死にたい」と答えるのです。その夜、幸二は自分の寝床近くにやって来た優子を抱こうとしますが、優子は逸平がやって来ると言い、むしろ「逸平の目にさらされることを望んでいた」ものの、幸二は断固としてそれを拒みます。
逸平の絞殺事件の数日前、三人は港の向こう岸へ出かけ、仲良く一緒に写真を撮ります。この写真は、彼らの間に生まれた「奇妙な愛」と、それが犯罪という形で結実する直前の、束の間の「幸福」あるいは「共犯関係」の象徴となります。その夜、伊豆は激しい暴風雨に見舞われます。夫である逸平の寝言で目を覚ました優子は、抑えきれぬ欲情に身を任せ、幸二の寝床に迫ります。幸二がふと振り返ると、隣の部屋から逸平が「放心した微笑」を浮かべて二人をじっと見つめているのが見えました。幸二は夢中で逸平に飛びかかり、その首を絞め、絞殺します。暴風で明滅する光の中、冷たい逸平の亡骸が横たわるその前で、幸二と優子は激しく抱き合うのです。
小説『獣の戯れ』の長文感想(ネタバレあり)
三島由紀夫の『獣の戯れ』は、読後、深い静寂と、人間の欲望の奥底に潜む狂気に思考が支配される、そんな作品でした。冒頭で三つの墓標が提示されるという異例の構成は、単なる事件の顛末を追うのではなく、その結末に至るまでの人間模様、心理の綾、そして避けられない運命について深く考えさせる仕掛けだと感じました。まるで、能の舞台を見ているかのような、ある種の儀式性すら感じさせる幕開けです。この手法は、読者が自ずと「なぜ彼らはこの運命を辿ったのか」という問いを抱き、物語の深層へと誘われる、まさに三島ならではの巧みな導入と言えるでしょう。
物語が進むにつれて、幸二、優子、逸平という三人の登場人物が織りなす関係性の倒錯が、徐々に露わになっていきます。特に印象的なのは、逸平が半身不随となり、失語症の身でありながらも、常に「放心したような微笑」を浮かべている点です。この微笑は、彼がもはや一般的な意味での人間的な感情を持たず、ある種の超越した存在、あるいは戯れの舞台装置と化していることを示唆しているように思えました。彼の存在そのものが、幸二と優子の間に芽生える異常な感情の触媒となり、彼らの「愛」をより複雑で倒錯的なものへと変質させていくのです。彼の死への願望は、幸二と優子にとって、彼らの「愛」を完成させるための「許可」であり、「命令」でもあったように感じられました。
幸二が逸平をスパナで殴りつけ、不具にしてしまう場面は、単なる暴力の衝動だけでは片付けられない、より深い意味合いを持っていると感じました。それは、幸二の内なる「獣」性が逸平の退廃によって刺激され、解き放たれる瞬間を象徴しているのではないでしょうか。三島は、人間の理性的な側面と、その奥底に潜む破壊的な欲望、そしてそれがどのように表出するかを、この行為を通じて鮮やかに描き出しているのです。幸二が服役を終え、優子が彼を西伊豆の別荘に迎え入れるという展開も、読者にとっては衝撃的です。これは単なる同情や責任感を超えた、優子の内に秘められた強い意志と、常識では測れない「愛」の形への探求を示唆しているように思えました。
三人の共同生活は、表面上は静かながらも、内側では常に心理的な緊張が張り詰めていました。優子が幸二に対して見せる「嫉妬のような態度」は、彼女が幸二との間に築きつつある特異な関係性への排他的な執着であり、逸平を巻き込むことでその関係性をより強固なものにしようとする倒錯した欲望の現れだと感じました。彼女の「濃い目の口紅」が象徴するように、彼女はこの「戯れ」を意識的に演じているかのようにも見えます。それは、単なる「痴情のもつれ」を超えた、愛と死が絡み合った美しい狂気の共同体が形成されていく過程を示しているのです。
物語のクライマックス、嵐の夜に逸平が絞殺される場面は、自然の猛威と登場人物たちの内なる感情の嵐が完璧にシンクロしています。暴風雨は、彼らの内なる「獣」性が解き放たれる舞台装置となり、理性的な判断を超えた、プリミティブな力に突き動かされていることを強調しています。逸平の「放心した微笑」が、幸二にとって殺害への決定的な引き金となる点は、彼らの間の倒錯した絆が究極の形へと昇華される瞬間を描いていると感じました。それは、逸平の死への願望が、幸二と優子の行為を正当化し、彼らの「愛」を完成させるための「儀式」であったかのように思えるのです。
殺害後、幸二と優子が抱き合う場面は、殺人という究極の罪を共有することで、彼らの「奇妙な愛」が完成された瞬間を象徴しています。それは、一般的な愛の形を超え、「死によって結び付けられる人間の絆」の極致を描いていると言えるでしょう。三島由紀夫は、この作品を通じて、人間の存在の深奥に潜む欲望の根源、そしてそれが社会規範を逸脱した際に生じる、美しくも恐ろしい関係性の可能性を追求しています。彼らの関係は、社会的な規範から完全に切り離され、彼らだけの「出口のない迷路のような悪夢のような世界」を創造したのだと感じました。
終章で再び現在に戻り、三つの墓標の描写と優子の言葉が語られるとき、物語全体のテーマが改めて読者に問いかけられます。優子が刑務所で語る「本当に私たち、仲が好かったんでございますよ。私たち3人とも、大の仲良しでした。和尚さんだけが御存知でした」という言葉は、私たちの常識的な「仲が良い」という概念を根底から揺るがします。それは、彼らの間に存在したのは、一般的な意味での愛情や友情ではなく、逸平の死と幸二の刑死、優子の終身刑という極限状況を通じてのみ成立し得た、倒錯的で排他的な「絆」であったことを示唆しているのです。
この「絆」は、「罪という容器に、愛が包まれる」と表現されるように、社会的な道徳や規範から逸脱した場所で形成された「真の愛」であり、その究極の形が三つ並んだ墓標として具現化されているのです。優子が肉体的に生きながらも「精神的には死人」であるという状態は、能における幽霊が過去の出来事を語るという構造を一層強固なものにし、物語全体に漂う「現実離れした」「夢のような」雰囲気を強化します。この「幽霊」性は、彼らがもはや社会的な生の意味を失い、事件以前の自己とは完全に断絶した存在であることを意味するのでしょう。
覚仁和尚だけが彼らの「真の愛」を「御存知」であったという事実は、この関係性が世間には理解され得ない、秘められた、ある種の宗教的あるいは哲学的な領域に属するものであることを強調しています。和尚は、能における「間狂言」として、彼らの「戯れ」の真の意味を理解し、その証人となるのです。三島は、この作品を通じて、人間の存在、欲望、そして運命が、生と死の境界を超えていかに複雑に絡み合っているかという、根源的な問いを提示し、読者に深い余韻を残します。
『獣の戯れ』は、単なる犯罪小説ではありません。それは、人間の魂の深淵、欲望の美と醜さ、そして愛の多様性を、能楽の手法を取り入れながら探求した、まさに芸術的な傑作だと感じました。読むたびに新たな発見があり、人間の複雑さに改めて魅了される、そんな作品です。この物語は、私たちの内側に潜む「獣」の存在を意識させ、人間という存在の不可解さについて深く考えさせる、忘れられない読書体験となるでしょう。
まとめ
三島由紀夫の『獣の戯れ』は、その特異な構成と深遠なテーマで、読者に強烈な印象を残す作品です。物語は冒頭で結末を提示し、なぜその運命に至ったのかという「人間の謎」へと読者を誘います。これは能楽の手法を取り入れたもので、単なる事件の顛末ではなく、登場人物たちの心理の深層と運命の必然性を描き出すことを可能にしています。
物語の中心となるのは、幸二、優子、そして逸平という三人の間の倒錯した関係性です。特に、逸平の「放心した微笑」は、彼がもはや一般的な人間性を超えた存在となり、幸二と優子の間に芽生える異常な「愛」を促す触媒となる点が印象的でした。彼らの関係は、社会的な規範から逸脱した場所で形成され、「罪という容器に、愛が包まれる」という、美しくも狂気に満ちた絆へと発展していきます。
作品は、人間の欲望の根源、エロスと死、そして運命と自由意志といった三島由紀夫文学の核心的なテーマを深く掘り下げています。嵐の夜に起こる逸平の絞殺は、彼らの「愛」の完成であり、究極の罪を共有することで結びつく倒錯した親密さを象徴しています。
最終的に、三つの墓標が語るのは、世間には理解され得ない、彼らだけの「真の愛」が死によって永遠に結び付けられたことの証です。この作品は、私たちの常識を揺さぶり、人間の複雑さと不可解さについて深く考えさせる、忘れられない読書体験となるでしょう。