小説「心とろかすような マサの事件簿」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。本書は、宮部みゆきさんの人気作『パーフェクト・ブルー』に登場した元警察犬マサと、蓮見探偵事務所の面々が活躍する、珠玉の短編集となっています。前作から約8年を経て刊行された本作には、単行本未収録だった短編に書き下ろしの中編1作を加えた、全5話が収録されています。

それぞれの物語は独立した事件を扱っていますが、蓮見加代子やその弟・諸岡進也、そして何より賢くて心優しいマサといったお馴染みの登場人物たちが、変わらぬ魅力を放っています。『パーフェクト・ブルー』を読まれた方はもちろん、本作から読み始める方でも十分に楽しめる内容だと思います。マサの視点から描かれるエピソードもあり、犬好きにはたまらない一冊かもしれません。

この記事では、各短編の物語の筋を追いながら、その結末にも触れていきます。そして、物語を読み終えて私が抱いた気持ちや考えたことを、詳しくお話ししたいと思います。少々長くなりますが、本書の魅力や、各エピソードが持つ深みについて、じっくりとお付き合いいただければ幸いです。

小説「心とろかすような マサの事件簿」のあらすじ

『心とろかすような マサの事件簿』は、5つの短編から構成される連作短編集です。主人公は、蓮見探偵事務所の”所員”である元警察犬のマサ。人間の言葉こそ話せませんが、鋭い嗅覚と観察力、そして豊かな感受性で、様々な事件の解決に貢献します。事務所所長の娘である蓮見加代子をはじめとする、人間たちとの心温まる交流も描かれています。

表題作「心とろかすような」では、加代子の妹・糸子とその友人・諸岡進也が奇妙な事件に巻き込まれます。夜道で、自ら車のトランクに入る少女を目撃した直後、二人は記憶を失い、気づけばラブホテルに…。マサの助けを借りて真相を探る加代子たちは、少女を利用した悪質な計画にたどり着きます。「てのひらの森の下で」は、加代子とマサが散歩中に公園で血を流して倒れている男を発見するところから始まります。しかし、通報のために加代子が現場を離れた隙に男は姿を消し、マサは何者かに襲われてしまいます。消えた男の行方と、もう一つの事件を結びつける意外な真相が明らかになります。

「白い騎士は歌う」では、コーヒー会社の社長殺害事件で容疑者とされた男の姉が、蓮見探偵事務所に調査を依頼します。弟の無実を信じる姉のため、調査を進めるうちに、薬物中毒者の女性と、彼女を救おうとした弟の行動、そして事件の裏に隠された企業の闇が浮かび上がってきます。「マサ、留守番する」は、事務所の面々が社員旅行で不在の間、マサが近所の翻訳家・ジュンコさんの元で留守番をする物語。ウサギの置き去り事件から始まり、やがて近所の公園での殺人事件へと繋がっていきます。この話では、マサが他の動物たちと”会話”しながら、独自の調査を進める様子が描かれます。

最後の「マサの弁明」は、なんと作者である宮部みゆきさん本人が依頼者として登場する、少し変わったお話です。夜な夜な聞こえる奇妙な”つっかけ”の音の正体を探ってほしいという依頼。調査を進める加代子は、過去の放火事件と、そこにまつわる少し怖い真実へとたどり着きます。各編とも、ミステリとしての面白さはもちろん、登場人物たちの心の機微や、社会的な問題にも触れられており、読後には様々なことを考えさせられます。

小説「心とろかすような マサの事件簿」の長文感想(ネタバレあり)

『心とろかすような マサの事件簿』を読み終えて、まず感じたのは、『パーフェクト・ブルー』とはまた違った味わい深さがあるということでした。長編だった前作に対して、本作は短編集。一つ一つの事件は比較的コンパクトにまとまっており、テンポよく読み進めることができます。しかし、その短い物語の中に、宮部さんらしい緻密なプロットと、人間の心の襞を描き出す筆致が凝縮されているように感じました。

各短編について、物語の核心に触れながら、私の感じたことを述べていきたいと思います。

「心とろかすような」

表題作となっているこの物語、タイトルから想像するような甘く切ない話かと思いきや、なかなかにビターな味わいでしたね。進也と糸子が巻き込まれる事件は、幼い娘を”おとり”に使った、計画的な美人局まがいの犯罪でした。娘が持つ、まさに”心とろかすような”天使の笑顔が、悪事に利用されるという構図がやるせないです。この少女の描き方には、宮部さんの容赦ない一面が垣間見える気がしました。参考にした文章にもありましたが、『模倣犯』に登場する栗橋浩美の共犯者、高井和明の妹・高井由美子を彷彿とさせるところがあります。無垢であるがゆえに残酷さを帯びてしまう、あるいは大人によってその無垢さを歪められてしまう子供の姿。宮部さんは時折、そうした子供の危うさや哀しさを、鋭く描き出すことがありますね。

事件そのものの解決は、マサの嗅覚という”飛び道具”もあって、比較的あっさりと進みます。しかし、物語の結末で蓮見家が仕掛けた”お仕置き”は、少し唐突な印象も受けました。原子力規制委員会を騙るというのは、やや強引な展開のようにも思えましたが、悪事を働いた親子に対する痛烈な皮肉、あるいは社会風刺のような意味合いも込められていたのかもしれません。前作の登場人物である進也が再登場したのは嬉しかったのですが、彼が『パーフェクト・ブルー』の事件の後、どのような人生を歩んでいるのか、もう少し知りたかったという気持ちも残りました。

「てのひらの森の下で」

早朝の公園で起こる不可解な事件。血まみれの男が忽然と消え、マサが何者かに襲われる。ミステリとしての導入は非常に魅力的です。すぐに、消えた男は暴力団員で、組織を裏切って追われている身であり、弟が匿っていたことが判明します。そして、公園での騒動は、弟が兄の逃亡を助けるために仕組んだ狂言だった、と。しかし、加代子は男の手相(感情線がない、いわゆる「マスカケ」)から、弟の証言の嘘を見抜きます。この手相のくだりは、少し都合が良すぎるというか、やや強引な解決のようにも感じました。

真相は、弟が自身の勤務先で起こった強盗事件のアリバイを作るために、死んだ兄の遺体を利用した、というものでした。兄の死体を公園に運び、あたかも生きている人間が襲われたかのように見せかけ、警察に「死体が消えた」と思わせる。そして、自分がその狂言の犯人だと名乗り出ることで、強盗事件があった時間帯のアリバイを確保しようとしたわけです。かなり複雑な計画ですが、そこまでしてアリバイを作りたかった理由が、やや弱く感じられたのも事実です。そして、マサを殴った犯人は、加代子と一緒に死体を発見した藤味咲子。彼女がジョギングに持ち歩いていた鉄アレイが凶器だった、というのも、少し唐突な感じがしました。ドラマ化もされたようですが、この展開はどのように描かれたのか、気になるところです。ラストは希望を感じさせる終わり方になっていますが、個人的には後味の悪さが残りました。

「白い騎士は歌う」

この短編が、個人的には一番読み応えがありました。「白い騎士」とは、敵対的買収から会社を守る友好的な買収者を指す経済用語ですが、ここでは薬物中毒に苦しむ女性を救おうとする男性の姿に重ねられています。依頼者は、殺人容疑で指名手配された宇野敏彦の姉。弟の無実を信じ、彼が多額の借金をしていた理由を探ってほしいと依頼します。調査を進める蓮見探偵事務所は、敏彦が伊藤あけみという薬物中毒の女性の治療費を工面するために奔走していたことを突き止めます。

敏彦は、かつて自分の不注意で姉に怪我を負わせてしまったという負い目から、困難な状況にあるあけみを見過ごせず、彼女にとっての「白い騎士」になろうとしたのではないか…姉の推測が切なく響きます。しかし、その行動が、思わぬ形で悪意に利用されてしまいます。真犯人は、殺された「ハートフルコーヒー」社長の友人で、会社の重役でもある秋末でした。秋末は、自身の息子の薬物問題を隠蔽するため、そして会社の金を横領するために社長を殺害。その罪を、金に困っていた敏彦になすりつけ、さらに口封じのために敏彦をも殺害したのです。敏彦がクリニックであけみの治療について相談しているところに、息子を連れた秋末が偶然現れてしまったことが、悲劇の引き金となりました。人の弱さや後悔、善意が悪意に利用される理不尽さ、そして企業や家族の中に潜む闇。短い物語の中に、様々な要素が詰め込まれており、深く考えさせられました。敏彦の行動は軽率だったかもしれませんが、彼の根底にあったであろう優しさや誠実さを思うと、胸が痛みます。

「マサ、留守番する」

この物語は、他の短編とは少し毛色が異なります。蓮見探偵事務所の面々が社員旅行で不在のため、マサが主役となって事件に挑みます。そして、最大の特徴は、マサが他の動物たち――近所の猫や犬、公園に住む博識なカラスの”アインシュタイン”――とコミュニケーションを取りながら情報を集めていく点です。この動物同士の会話シーンは、ファンタジックで微笑ましい一方で、彼らが人間の世界の出来事をどのように認識し、関わっているのかを描き出していて興味深いです。まるで、人間社会のすぐ隣にある、もう一つの世界の窓を覗き見ているような感覚を覚えました。

物語は、小学校から持ち出されたウサギが事務所の前に置き去りにされるところから始まります。ウサギを持ち出したのは、動物虐待の計画を耳にして心配した少女でした。その後、近所の公園で男性の刺殺死体が発見され、犯人として被害者の次男で、ウサги殺しを計画していた中学生・藤堂英樹が自首します。しかし、物語が進むにつれて、事態は二転三転します。実は、日常的に暴力を振るっていたのは父親の方であり、動物虐待も父親の仕業だったこと。そして、父親を殺害したのは、次男ではなく、優等生と見られていた長男・隆明だったことが明らかになります。動機は、父の暴力から家族を守るため、そして弟が罪を犯すのを止めるためでした。

プロットとしては、ややご都合主義的な展開や、唐突な真相の暴露といった感は否めません。しかし、この物語で宮部さんが本当に描きたかったのは、殺人事件の真相そのものよりも、むしろ藤堂家に飼われていたボクサー犬「ハラショウ」の悲劇だったのではないでしょうか。ハラショウは、飼い主である父親から虐待を受け、マサが他の事件にかかりきりになっている間に、静かに命を落としてしまいます。いつも気にかけていたハラショウの最期に立ち会えなかったマサの後悔と悲しみが、痛いほど伝わってきます。動物虐待という重いテーマを扱いながら、マサの視点を通して、声なき存在の苦しみや、それに気づけなかったことへの痛みを描き出した、非常に印象深い一編でした。力なきものを支配することでしか自尊心を保てない人間の醜さと、それに対する静かな怒りが込められているように感じます。

「マサの弁明」

最後は、作者自身が登場するという、メタフィクション的な要素を含んだ短編です。宮部みゆきと名乗る女性が蓮見探偵事務所を訪れ、「夜中に聞こえる”つっかけ”のような音の正体を調べてほしい」と依頼します。ホラー小説家でもある宮部さんらしい、少し不気味な依頼ですね。加代子の調査により、音の原因は隣家の浴室にある古い寒暖計だと判明します。しかし、話はそれだけでは終わりません。その寒暖計は、かつてこの土地で起きた放火事件の現場から、家の新築時に運び込まれた土砂に混じって出てきたものだというのです。そして、その放火事件では、一人の少女が亡くなっていました。

依頼主に事件の調査結果を報告する中で、加代子は古い集合写真を見せられます。そこには、幼い頃の依頼主(宮部みゆき)と、その背後に立つ、放火事件で亡くなった少女の姿が写っていました。そして、少女は”つっかけ”を履いていた…。夜中に聞こえる音は、単なる物理的な現象ではなく、過去の悲劇と繋がる、何か超常的な存在の気配だったのかもしれない…そう示唆して物語は終わります。ミステリというよりは、怪談や奇譚に近い味わいですね。短いながらも、ぞくりとさせられる余韻を残します。作者自身を登場人物として配置することで、現実と虚構の境界を曖昧にし、物語に不思議な奥行きを与えているように思いました。

5つの短編を通して読むと、マサという存在が、単なる”賢い犬”以上の役割を担っていることがわかります。彼は、人間の言葉を理解し、鋭い観察眼で事件の手がかりを見つけ出すだけでなく、登場人物たちの心に寄り添い、慰めを与える存在でもあります。特に「マサ、留守番する」では、彼の優しさや責任感、そして仲間を思う気持ちが深く描かれており、胸を打たれました。動物の視点を取り入れることで、人間中心の世界観を相対化し、普段は見過ごしがちな物事や感情に光を当てる効果も生んでいます。

一方で、いくつかの短編では、事件解決のプロセスや動機付けに、やや強引さや物足りなさを感じる部分もありました。特にミステリとしての完成度を追求すると、粗が見えてしまうかもしれません。しかし、それを補って余りあるのが、登場人物たちの魅力と、物語全体を包む温かい雰囲気、そして時折見せる社会や人間の暗部への鋭い視線です。蓮見探偵事務所の面々のキャラクターは、前作から引き続き魅力的で、彼らのやり取りを読んでいるだけでも楽しい気持ちになります。

『パーフェクト・ブルー』が長編として一つの大きな事件をじっくり描いたのに対し、『心とろかすような マサの事件簿』は、様々な色合いの事件を通して、マサと人間たちの日常や心の機微を丁寧に描き出した作品集と言えるかもしれません。それぞれの物語は独立していますが、読み進めるうちに、蓮見探偵事務所を取り巻く世界への愛着が深まっていくのを感じました。宮部さんの作品に共通する、弱者への優しい眼差しや、社会の不条理に対する静かな怒りも、随所に感じ取ることができます。ミステリファンはもちろん、心温まる物語や、動物が登場する物語が好きな方にも、ぜひ手に取ってみてほしい一冊です。

まとめ

宮部みゆきさんの『心とろかすような マサの事件簿』は、元警察犬マサと蓮見探偵事務所の面々が活躍する、5つの短編を収めた作品集です。前作『パーフェクト・ブルー』のファンはもちろん、初めてこのシリーズに触れる方でも、十分に楽しむことができるでしょう。各話で扱われる事件は様々ですが、どれも宮部さんらしい緻密な構成と、登場人物の心情を深く描いた物語になっています。

本書の最大の魅力は、やはり主人公であるマサの存在感でしょう。賢くて勇敢なだけでなく、とても心優しく、仲間思いなマサの姿には、きっと心を掴まれるはずです。「マサ、留守番する」のように、マサや他の動物たちの視点から物語が描かれるエピソードもあり、動物好きの方には特におすすめできます。ミステリとしての謎解きの面白さに加え、人間の心の機微や、時には社会の暗い部分にも光を当てており、読後に様々なことを考えさせてくれます。

全体的に読みやすく、それでいて各編が持つテーマは深く、読者の心に響くものがあります。心温まる物語に触れたい時、あるいは少しだけ日常から離れて、マサと一緒に事件の謎を追いかけたい時に、ぴったりの一冊ではないでしょうか。読み終えた後、きっとあなたもマサと蓮見探偵事務所の面々のファンになっていることと思います。