大いなる助走小説「大いなる助走」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

この物語は、文学という魔物に魅入られ、その世界の頂点を目指そうとした一人の男の壮絶な顛末を描いています。彼が駆け上がろうとした階段は、栄光へと続いていたのか、それとも破滅への坂道だったのでしょうか。彼の純粋だったはずの情熱が、やがて狂気へと変貌していく様は、読む者の心を強く揺さぶります。

舞台は文学界。しかし、そこで繰り広げられるのは、美しい言葉の応酬だけではありません。嫉妬、裏切り、金銭、そして欲望。人間のあらゆる業が渦巻くその場所で、主人公は自らの全てを懸けた大勝負に打って出ます。そのあまりにもまっすぐな疾走は、やがて周囲を巻き込み、取り返しのつかない悲劇へと突き進んでいくのです。

この記事では、彼の疾走の軌跡を追いながら、物語の核心に迫っていきます。文学を愛する方、人間の心の深淵を覗いてみたい方、そして何より筒井康隆作品の底知れぬ魅力に触れたい方にとって、この記事が「大いなる助走」という作品世界への良き案内役となれば幸いです。

小説「大いなる助走」のあらすじ

大手企業に勤めるエリート社員、市谷京二。彼は会社組織への鬱屈した思いを抱える中で、ひょんなことから文学の世界に足を踏み入れます。同人誌「焼畑文芸」に参加した彼は、主宰者の勧めに従い、自らの勤務先である大企業の腐敗を暴く内部告発的な小説「大企業の群像」を書き上げます。

この作品は、彼が所属する地方の同人誌では酷評されたものの、中央の著名な文学誌に転載されるやいなや、大きな評判を呼びます。そして、ついには権威ある文学賞「直本賞」の候補作にまで選ばれるという、劇的な展開を迎えるのです。この栄誉は、しかし、彼の人生を大きく狂わせる始まりに過ぎませんでした。

会社を解雇され、実家からも勘当。社会的な足場をすべて失った京二にとって、直本賞の受賞は単なる名誉ではなく、生き残るための唯一の道となります。彼は退職金をはじめとする全財産を握りしめ、受賞を確実なものにするため、文壇の裏側で行われているという「受賞工作」に手を染めることを決意します。

すべてを捨てて上京した京二は、受賞請負人として名高い多聞伝伍に接触し、選考委員たちの買収を依頼します。金、女、そして自らの身体さえも犠牲にしながら、彼は文学賞という栄光を掴むため、破滅へと続く道をひた走るのでした。その先に彼を待ち受ける運命とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

小説「大いなる助走」の長文感想(ネタバレあり)

文学というものに、どこか清らかで高尚なイメージを抱いている方は少なくないかもしれません。しかし、この「大いなる助走」という物語は、そうした甘い幻想を木っ端微塵に打ち砕いてくれます。そこにあるのは、人間の欲望が渦巻く、極めて生々しく、そして滑稽でさえある文壇という世界の姿なのです。

主人公である市谷京二は、はじめは文学に対して純粋な情熱を抱く一人の青年でした。大企業での鬱屈した日々。その不満を創作へと昇華させようとした彼の動機は、ごく自然なものだったように感じます。彼が書いた「大企業の群像」は、彼自身の魂の叫びそのものだったはずです。

ところが、その作品が直本賞の候補となった瞬間から、彼の運命の歯車は大きく狂い始めます。会社を追われ、帰る場所を失った彼にとって、受賞は絶対的な至上命令となります。ここからが、この物語の真骨頂。彼の「助走」が、常軌を逸した領域へと加速していくのです。

京二が頼ったのは、作品の力ではなく、受賞工作という裏技でした。彼は受賞請負人・多聞伝伍に全財産を託し、その指示に従って選考委員たちを買収しようとします。この選考委員たちのキャラクターがまた、強烈の一言に尽きます。彼らは文学の番人などではなく、ただの欲望の塊なのです。

男色家の雑上掛三次、女好きの坂氏疲労太、そして金に汚い海牛綿大艦や明日滝毒作。京二は彼らのグロテスクな弱点につけ込み、工作を仕掛けていきます。雑上には自らの身体を差し出し、坂氏には恋人である時岡玉枝を差し出す。その姿は、痛々しいを通り越して、もはや悲壮感すら漂います。

かつて文学に純粋な憧れを抱いていた青年が、目的のためには手段を選ばず、自らの尊厳や愛する人さえも道具として利用していく。この変貌の過程こそが、文壇という世界の恐ろしさを物語っているように思えてなりません。彼は、腐敗した世界と戦うために、自らもまたその腐敗に染まっていくしかなかったのです。

彼の献身的な(というべきか、狂気的な)工作は、一見すると成功したかのように思われました。選考会では、京二の受賞を推す声が多数を占めます。しかし、土壇場で待っていたのは、あまりにも無慈悲な裏切りでした。この裏切りの構図がまた、この物語の容赦のなさを示しています。

裏切りの中心人物は、金を受け取っていたはずの膳上線引。彼はなんと、選考会の最中に、自らの新作に京二の作品からの一節を無意識に盗用してしまっていることに気づきます。自身の盗作スキャンダルを恐れた彼は、自己保身のために手のひらを返し、京二を落選させる側に回るのです。

文学の創造性や独自性といった価値を守るべき立場の人間が、盗作という最も恥ずべき行為をし、その事実を隠蔽するために、ある才能を握り潰す。これほど皮肉なことがあるでしょうか。京二の努力、犠牲、そのすべてが、一人の男のあまりに卑小な保身の前に、あっけなく踏みにじられてしまいます。

そして、京二の落選が決まると、故郷の同人誌仲間たちは「バンザイ」と叫んで喜んだといいます。才能への嫉妬。これもまた、文学の世界に渦巻く醜い感情の一つなのでしょう。京二は、中央の権威にも、地方の仲間にも、そのすべてに裏切られたのです。

この絶望的な状況と並行して描かれる、もう一つの悲劇があります。同人仲間だった女子高生、徳永美保子の死です。彼女は男に弄ばれ、妊娠し、捨てられた末に自ら命を絶ちます。文学という美名のもとに集いながら、その実、他者を搾取し、踏みつけにする人間たち。京二が直面した文壇の腐敗と、美保子の悲劇は、根底で繋がっているように感じられます。

すべてを失い、絶望のどん底に突き落とされた京二。彼の心に残ったのは、裏切られた者たちへの燃え盛るような怒りだけでした。その怒りを唯一の燃料として、彼は第二の作品の執筆に取り掛かります。それこそが、この物語の題名でもある「大いなる助走」でした。

この小説で彼が描いたのは、もはや文学ではありません。それは、自らを裏切った直本賞の選考委員たちを、一人残らず惨殺していくという、あまりにも詳細な復讐計画書でした。彼の筆は、もはや社会を映す鏡ではなく、殺意を遂げるための凶器へと完全に変貌してしまったのです。

しかし、文学界はそんな彼の最後の叫びさえも拒絶します。「小説にもなっていない」と原稿を突き返された時、京二の中で何かがぷつりと切れました。文学による復讐さえも否定された彼は、ついに、小説の内容を現実世界で実行に移すことを決意します。

散弾銃を手に、選考委員たちを次々と襲撃していく京二。彼のこれまでの人生、文学への情熱、受賞工作、そして絶望、そのすべてが、この最後の破滅的な行為への「助走」であったかのように。物語はクライマックスに向け、凄まじい速度で転がり落ちていきます。

警察とのカーチェイスの末、京二はバリケードに激突し、あっけなく死にます。彼の壮大な復讐劇は、誰に理解されることもなく、自己破壊という形で幕を閉じるのです。積み上げに積み上げられた物語が、こんなにも虚しい結末を迎えることに、読者はしばし呆然としてしまうのではないでしょうか。

しかし、物語はここで終わりません。本当に恐ろしいのは、この後の展開です。京二の死後、彼が書いた小説「大いなる助走」は、実際の連続殺人犯の手記として、出版業界の注目の的となります。「売れればベストセラー間違いなし」と、各社が彼の生原稿を血眼になって探し回るのです。

人間の悲劇や狂気すらも、金儲けの道具として消費しようとするメディアや出版業界の体質。その醜悪さが、これでもかと描かれます。京二の怒りや絶望は、センセーショナルな商品としてしか見られていないのです。

そして、物語は最大の皮肉と虚無感をもって締めくくられます。そのお宝であるはずの原稿は、なんと、すでにシュレッダーにかけられ、この世から完全に消滅していたのです。彼の人生、彼の文学、彼の復讐、そのすべてを込めた魂の記録は、誰の目に触れることもなく、無に帰してしまいました。主人公の存在そのものが、まるで初めから何もなかったかのように消されてしまう。この救いのない結末こそが、筒井康隆という作家が突きつける、この世界の真実の姿なのかもしれません。

まとめ

小説「大いなる助走」は、文学界の栄光を目指した一人の男が、その純粋な情熱を狂気に変え、破滅へと突き進んでいく物語でした。彼の疾走は、私たちに文学の世界の光と、それ以上に深い闇を見せてくれます。

物語の中で描かれるのは、選考委員たちの腐敗や文壇の裏側だけではありません。それは、人間の持つ承認欲求の暴走や、目的のためには手段を厭わなくなる心の危うさの物語でもあります。市谷京二の姿は、極端ではありますが、私たちの誰もが陥る可能性のある罠を描いているのかもしれません。

彼の行動の是非を問うことは簡単です。しかし、彼をそこまで追い詰めたのは何だったのかを考えると、単純に彼を断罪することはできません。社会の不条理、権威の欺瞞、そして人間の嫉妬。そうしたものが複雑に絡み合い、一人の人間を破滅へと導いていく過程には、現代社会に通じる普遍的なテーマが潜んでいます。

この物語を読み終えた時、心に残るのは爽快感ではなく、深い虚無感かもしれません。しかし、その虚無感こそが、この作品が持つ強烈な魅力であり、私たちに根源的な問いを投げかけ続けてくれるのです。人間の業と文学の魔力を、ぜひ味わってみてください。