小説「夜かかる虹」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。角田光代さんが描く、姉妹の複雑で、どこか息苦しい関係性に焦点を当てた物語です。読んでいると、胸がざわざわするような、それでいて目が離せないような、不思議な感覚に包まれるかもしれません。
この物語は、見た目はそっくりだけれど、性格は正反対の姉妹、フキコとリカコの関係を描いています。幼い頃から続く二人の間の確執や、嫉妬、そして奇妙な依存関係が、一人の男性、修平の登場によって、さらに揺れ動いていく様子が丁寧に描かれています。姉の視点から語られることで、妹に対する複雑な感情が生々しく伝わってきます。
この記事では、まず「夜かかる虹」の物語の筋道を、結末に触れながら詳しくお話しします。どのような出来事が起こり、姉妹の関係がどう変化していくのか、その流れを追っていきましょう。読み進めるうちに、あなたもこの姉妹の物語の渦中にいるような気持ちになるかもしれません。
そして、物語の詳細をお伝えした後には、私がこの作品を読んで何を感じ、どう考えたのかを、詳しく述べていきたいと思います。ネタバレを大いに含みますので、まだ結末を知りたくない方はご注意ください。姉妹の関係性、登場人物たちの心理、そして物語全体が投げかけるものについて、じっくりと考えていきます。
小説「夜かかる虹」のあらすじ
主人公の遠野フキコは、もうすぐ結婚適齢期を迎える女性です。フリーターとしてサンプリング配布のアルバイトをしながら、マスコミ系の会社に勤める恋人、北村修平との将来を夢見ています。しかし、この修平は、元々はフキコの会社の同僚の恋人でした。フキコは彼を気に入り、積極的にアプローチして略奪した過去があります。彼女の日常は、一見穏やかに見えますが、どこか満たされない思いを抱えているようです。
そんなフキコには、三つ年下の妹、リカコがいます。二人は驚くほど容姿が似ていますが、性格はまるで違います。姉のフキコが几帳面で真面目なのに対し、妹のリカコは自由奔放でだらしなく、それでいて不思議と人に好かれ、特に男性からは昔から非常によくモテるタイプでした。フキコは、幼い頃からリカコに大切なものを奪われてきたと感じており、妹に対して素直に愛情を注ぐことができません。
ある日、フキコが家で修平とテレビを見ていると、お見合い番組に見慣れた顔が映ります。それは妹のリカコでした。番組内で複数の男性から求愛され、困ったような、それでいて嬉しそうな表情で一人の男性を選ぶリカコの姿に、フキコは言いようのない不快感を覚えます。まるで何か醜いものを見たかのような気分になり、動揺を隠せません。
そのテレビ放送の直後、リカコは番組でカップルになった男性を連れて、突然フキコの家にやってきます。強引に家に上がり込み、夜中まで一方的に話し続けたかと思うと、連れの男性を置き去りにして姿を消してしまいます。残された男性から、リカコに一方的に別れを告げられ、同棲していた部屋も追い出されたと聞いたフキコは、身勝手な妹への怒りを募らせます。
後日、修平がフキコの家に来ているところに、またしてもリカコが現れます。フキコが怒る暇もなく家に上がり込んだリカコは、あっという間に修平と打ち解け、楽しそうに話し始めます。フキコは、二人の親密な様子をただ苦々しい思いで見つめるしかありません。リカコは修平の紹介で同じ会社で働き始め、フキコの前で二人にしか分からない社内の話題で盛り上がるようになります。
フキコは、幼い頃からリカコに抱いてきた嫉妬心を再び燃え上がらせます。おもちゃや洋服、両親の愛情、そして今度は恋人までも奪われるのではないかという疑念が、フキコの心を蝕んでいきます。かつて自分が修平を略奪したのと同じように、リカコも修平を奪おうとしているのではないか。そんな疑心暗鬼に駆られたフキコは、ついにリカコと直接対決することを決意します。リカコが新たに始めたルームシェアの家を訪ねたフキコは、そこで修平の腕時計を身につけたリカコの姿を目にし、激しく詰め寄るのでした。しかし、リカコは冷静に、フキコの歪んだ思い込みを指摘します。
小説「夜かかる虹」の長文感想(ネタバレあり)
角田光代さんの「夜かかる虹」を読み終えたとき、心の中にずっしりとした重たい感情と、なんとも言えないざわざわした感覚が残りました。物語は姉フキコの視点で進むため、読者は自然とフキコの感情に寄り添い、妹リカコの奔放さや、人のものを欲しがるように見える姿に、最初は嫌悪感や苛立ちを覚えるかもしれません。私もそうでした。なんて身勝手で、姉の気持ちをかき乱す妹なのだろうと。
しかし、物語が進むにつれて、フキコ自身の内面、過去の行いが明らかになるにつれて、その印象は少しずつ揺らいでいきます。フキコは決して単なる被害者ではありません。彼女もまた、過去に同僚から恋人(修平)を略奪するという、決して褒められたことではない行動をとっています。そして、幼い頃には、無邪気に見える妹リカコを、両親の見ていないところで意地悪く扱っていたという事実も明かされます。
この姉妹の関係性は、単純な「加害者と被害者」という構図では捉えきれません。フキコはリカコに大切なものを奪われてきたと感じ、嫉妬と憎しみを抱いていますが、同時にリカコの存在を強く意識し、ある意味で依存しているようにも見えます。リカコの方も、姉を慕っているように見えながら、その実、姉が手に入れたものを欲しがり、結果的に奪ってしまう。それは姉への歪んだ愛情表現なのか、それとも幼い頃に受けた仕打ちへの無意識の復讐なのか。
リカコが修平と親しくなっていく過程は、読んでいて本当に息苦しくなります。フキコの前でわざと修平との親密さを見せつけるような言動。二人しか分からない職場の話題。フキコがかつて修平を落とした手口をなぞるかのように、リカコもまた修平に近づいていく。フキコの疑心暗鬼は、読者にも伝染し、本当にリカコは修平を奪おうとしているのか、それともフキコの被害妄想なのか、境界線が曖昧になっていきます。
特に印象的だったのは、リカコがルームメイトについて語る場面です。彼女は、他人は平気で傷つけるくせに、自分が傷つけられると大騒ぎする人間が嫌いだと言います。これは、暗に姉であるフキコのことを指しているのではないでしょうか。幼い頃、フキコはリカコを傷つけても平気だった。しかし、大人になり、自分が大切にしている(と思い込んでいる)修平を奪われそうになると、激しく取り乱す。リカコの言葉は、フキコのそんな矛盾を鋭く突いているように感じられました。
クライマックスの姉妹喧嘩の場面は、読んでいて胸が締め付けられるようでした。修平の腕時計を身につけていたリカコに激高するフキコ。しかし、リカコは驚くほど冷静です。「私にとられなきゃ大事だって思えないくせに。私の手に入ったものがよく思えるだけでしょ?それ、まだなおんないの?」。このセリフは、この姉妹の関係性の核心を突いています。フキコは、本当に修平を愛していたのでしょうか。それとも、リカコに奪われたくない、リカコよりも優位に立ちたいという執着心から、修平を「大事なもの」と思い込もうとしていたのではないでしょうか。
リカコは腕時計を「忘れ物だから返しておいて」とフキコに渡します。結局、修平とリカコの間に何があったのか、明確には描かれません。修平が本当にリカコに惹かれていたのか、それともリカコが意図的にフキコを嫉妬させるために行動していただけなのか。その曖昧さが、読後のもやもや感を増幅させます。真実はどうであれ、フキコが抱える問題の本質は、リカコとの歪んだ関係性そのものにあるのでしょう。
この物語は、姉妹という近しい関係だからこそ生まれる、愛憎の複雑さを容赦なく描き出しています。羨望、嫉妬、依存、支配、そして微かな愛情。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合った感情が、フキコの視点を通して生々しく伝わってきます。血が繋がっているからといって、必ずしも良好な関係が築けるわけではない。むしろ、近すぎるからこそ、憎しみやわだかまりが深くなることもある。そんな家族関係の暗部を、角田さんは見事に切り取っています。
ラストシーン、アルバイト帰りのフキコが雷雨に見舞われ、駅で立ち往生していると、リカコがそっと傘を差し出す場面は、少しだけ救いを感じさせます。一つの傘に肩を寄せ合って歩く二人。リカコは幼い頃の思い出話をします。そして、傘をフキコに預け、雨の中を走り去っていく。あの激しい喧嘩の後で、何事もなかったかのように現れるリカコ。これは和解の兆しなのでしょうか。それとも、この先も二人の奇妙な関係は続いていくという暗示なのでしょうか。
私は、これは完全な和解ではないけれど、それでも切ることのできない姉妹の絆のようなものを感じました。どんなに憎み合い、傷つけ合ったとしても、ふとした瞬間に寄り添ってしまう。それが家族というものなのかもしれません。リカコが去り際に預けた傘は、まるで二人の関係性を象徴しているかのようです。雨を防いでくれるけれど、いつかは返さなければならない、借り物のような、不安定な繋がり。
この作品には、「草の巣」というもう一つの中編も収録されています。こちらもまた、掴みどころのない、不穏な空気が漂う物語です。「家」を作っているという見知らぬ無口な男の車に乗り込み、あてのない旅をする「私」。現実感が希薄で、まるで夢の中を彷徨っているような感覚。読者からは難解だという声も多いようですが、「夜かかる虹」とはまた違った形で、人間の心の不安定さや、どこにも属せないような浮遊感が描かれているように感じました。
「夜かかる虹」も「草の巣」も、読後にすっきりとした解決が与えられるわけではありません。むしろ、もやもやとした疑問や、割り切れない感情が残ります。しかし、その割り切れなさこそが、人間の心の複雑さをリアルに映し出しているのかもしれません。角田光代さんの描く世界は、時に痛みを伴いますが、それでも人間の内面を深く見つめさせてくれる力があります。
特に「夜かかる虹」で描かれる女性同士の、特に姉妹間の微妙な感情の揺れ動きは、非常に巧みだと感じます。共感できる部分もあれば、まったく理解できない部分もある。それでも、フキコやリカコの行動原理を考えずにはいられなくなります。なぜ彼女たちは、こんなにもこじれた関係性の中にいるのだろうか、と。
タイトルの「夜かかる虹」は、月虹(げっこう)を指すのかもしれません。夜の闇の中に、ぼんやりと浮かび上がる虹。それは、希望の象徴なのか、それともはかない幻なのか。フキコとリカコの関係もまた、この夜かかる虹のように、曖昧で、掴みどころがなく、そしてどこか物悲しい美しさを秘めているのかもしれない、そんな風に思いました。
この物語を読んで、自分自身の人間関係、特に家族との関係について、改めて考えさせられました。当たり前のように存在している関係性の中にも、実は見過ごしている複雑な感情や、言葉にならない思いが隠れているのかもしれません。角田光代さんの作品は、そうした日常に潜む心の機微を、鋭く、そして繊細に描き出してくれる、貴重な読書体験を与えてくれると感じています。
まとめ
角田光代さんの小説「夜かかる虹」は、読む人の心をざわつかせる、姉妹の複雑な関係を描いた物語です。主人公フキコの視点を通して語られる、妹リカコへの嫉妬や憎しみ、そして奇妙な依存関係は、非常に生々しく、読んでいると息苦しさを覚えるほどでした。しかし、物語が進むにつれて、フキコ自身の抱える問題や過去の行いも明らかになり、単純な善悪では割り切れない、人間の心の深淵を覗き見るような感覚に陥ります。
物語の結末に触れると、激しい姉妹喧嘩の後、ラストシーンでは雨の中、リカコがフキコに傘を差し出す場面が描かれます。これが完全な和解を意味するのか、それとも二人の歪んだ関係性がこれからも続いていくことを示唆するのか、解釈は読者に委ねられているように感じました。この曖昧さが、かえってリアルな余韻を残します。結局、姉妹という関係は、どんなにこじれても簡単には断ち切れないものなのかもしれません。
この作品を読んで強く感じたのは、近しい関係だからこそ生まれる愛憎の深さです。羨望や嫉妬といった負の感情だけでなく、言葉にならない繋がりや、ふとした瞬間に見せる優しさのようなものも描かれており、人間の感情の多面性を強く感じさせられました。読後には、もやもやとしたものが残るかもしれませんが、それも含めて深く考えさせられる作品です。
もしあなたが、人間の心の複雑さや、一筋縄ではいかない人間関係を描いた物語に興味があるなら、「夜かかる虹」はぜひ手に取っていただきたい一冊です。特に、姉妹や兄弟がいる方は、フキコやリカコの感情に、どこか共感したり、あるいは反発したりしながら、自分自身の関係性について考えるきっかけになるかもしれません。