小説「分身」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。東野圭吾氏が紡ぎ出したこの物語、巷では医療サスペンスだのSFだのと分類されているようですが、果たしてその実態は。二人の瓜二つの女性、彼女たちの数奇な運命を、少々斜に構えつつ紐解いていきましょうか。

物語は、函館と東京、二つの地で生きる二人の女性、氏家鞠子と小林双葉を中心に展開します。一見、何の関係もないかに見える彼女たち。しかし、運命の糸は複雑に絡み合い、やがて衝撃的な真実へと繋がっていくのです。母親の死、出生の秘密、そして見え隠れする巨大な陰謀。ありふれた日常が、非日常へと反転する瞬間、人間は何を思い、どう行動するのか。

この記事では、そんな「分身」の物語の核心に触れながら、その魅力、あるいは欺瞞とも言える部分について、私なりの解釈を交えつつ語っていきます。少々長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。真実を知りたいという欲求は、時に身を滅ぼす劇薬にもなり得るのですから。

小説「分身」のあらすじ

舞台は1990年代初頭の日本。物語は二人の女性の視点から描かれます。一人は、函館で育ち、札幌の大学に通う18歳の氏家鞠子。彼女は幼い頃から、母・静恵に愛されていないのではないかという疑念を抱いています。その疑念は、中学生時代に全寮制の学校に入れられたこと、そして何より、自分と母親の容姿が全く似ていないことから深まっていきます。5年前、母は自宅に火を放ち、自ら命を絶ちました。父である大学教授・氏家清は、その理由を語ろうとしません。鞠子は、母の死の真相と自身の出生の秘密を探るため、父の過去を辿ることを決意します。

もう一人は、東京で母子家庭に育った20歳の大学生、小林双葉。アマチュアバンドのボーカルとして活動する彼女は、その美貌と歌声で注目を集め、テレビ出演のチャンスを掴みます。しかし、母・志保は「テレビに出てはいけない」と頑なに反対。その理由を問いただす間もなく、志保は轢き逃げ事故で命を落としてしまいます。母の死とテレビ出演の関連を疑った双葉は、真相を突き止めるため、母の遺品に残された僅かな手がかりを頼りに、北海道へと旅立ちます。

東京にやってきた鞠子は、父の母校である帝都大学医学部で調査を進めるうちに、自分と瓜二つの女性、小林双葉の存在を知ります。一方、北海道に渡った双葉もまた、取材に来た雑誌記者・脇坂講介の助けを借りる中で、氏家鞠子の存在に辿り着きます。なぜ二人は瓜二つなのか。双子の可能性も考えられますが、年齢が異なり、それぞれの母親から生まれたという事実は揺るぎません。鞠子の父・清が過去に発生工学を研究していたこと、双葉の母・志保が帝都大学で助手をしていたこと。散りばめられたピースが繋がり始めるとき、恐るべき真実が姿を現します。

二人の出生の裏には、クローン技術が関わっていました。かつて、帝都大学の美人研究者であった高城晶子は、夫の遺伝病を理由に、夫以外の精子と自身の卵子を用いた体外受精を望みます。しかし、その過程で、鞠子の父・氏家清によって秘密裏にクローン胚が作られ、その代理母となったのが双葉の母・小林志保だったのです。鞠子は晶子の、そして双葉は鞠子のクローンとして、この世に生を受けたのでした。さらに、この事実は元首相・伊原駿策の知るところとなり、彼は自身の病気治療のため、鞠子を利用しようと画策します。二人の女性は、自らの存在意義を問いながら、巨大な陰謀と自身の「分身」に対峙していくことになるのです。

小説「分身」の長文感想(ネタバレあり)

さて、東野圭吾氏の「分身」。この作品を読み解く上で、避けて通れないのは「クローン」というテーマでしょう。1993年刊行当時、この技術はまだ現実味を帯びていない、まさにSFの領域にあったと言えます。しかし、現代を生きる我々にとって、クローン技術は決して遠い世界の絵空事ではありません。だからこそ、今この作品を読む意義があるのかもしれませんね。物語は、氏家鞠子と小林双葉、二人の視点が交互に描かれることで進行します。この手法自体は目新しいものではありませんが、読者の興味を持続させ、徐々に核心へと迫っていく構成は見事と言えるでしょう。

鞠子は函館のお嬢様、双葉は東京の下町育ち。対照的な環境で育った二人が、それぞれの母親の死をきっかけに、自らの出生の秘密を探り始めます。鞠子は父の過去を、双葉は母の死の真相を追う。その過程で、互いの存在を知り、やがて自分たちが「作られた存在」であるという衝撃的な事実に直面する。このプロットラインは、サスペンスとして非常に良くできています。特に、鞠子が東京で、双葉が北海道で、互いの「ホーム」ではない場所で調査を進めることで、すれ違いや情報入手の困難さが生まれ、物語に程よい緊張感を与えています。携帯電話もインターネットも普及していない時代設定が、この隔絶感を効果的に演出していると言えるでしょう。

しかし、この物語の核心にあるのは、単なる出生の秘密探しではありません。それは、「アイデンティティ」の探求であり、「家族」とは何か、「人間」とは何かという根源的な問いかけなのです。鞠子は、裕福な家庭に育ちながらも、母親からの愛情を感じられず、自身の容姿が両親と似ていないことに孤独感を深めていきます。一方、双葉は、貧しいながらも母親の愛情を受けて育ちますが、その母親を突然失い、さらに自身の存在が「普通」ではないことを知る。二人は、自分が何者なのか、どこに属しているのかという問いに苦悩します。

ここで注目すべきは、二人の「母親」の存在です。鞠子の母・静恵は、娘が自分のクローンであることを知り、精神的に追い詰められ、最終的には娘を道連れにしようとします。これは、母性という本能と、倫理的な葛藤、そして自身の存在意義への不安が複雑に絡み合った悲劇と言えるでしょう。一方、双葉の母・志保は、代理母として双葉を産みましたが、深い愛情を持って育て上げます。血の繋がりはなくとも、そこには確かな母性が存在した。しかし、彼女もまた、秘密を守るために命を落とすことになります。この対照的な二人の母親像は、「母性」とは何か、そして「家族」の形とは何かを読者に問いかけます。血縁か、それとも共に過ごした時間か。答えは容易には出ません。

そして、二人の「父親」である氏家清。彼は、優秀な研究者でありながら、倫理的に許されない行為に手を染めます。その動機は、研究への探求心だったのか、それとも高城晶子への歪んだ感情だったのか。作中では明確に描かれていませんが、彼の行動が多くの悲劇を生んだことは事実です。彼が最後に鞠子を助ける場面は、贖罪の意識の表れと見ることもできますが、それだけでは到底償いきれない罪を背負っていると言わざるを得ません。彼の存在は、科学技術の進歩がもたらす倫理的な問題を象徴しているかのようです。

物語のもう一つの軸となるのが、元首相・伊原駿作の存在です。彼は、自身の延命のためにクローン技術を悪用しようとします。権力者が科学を私利私欲のために利用するという構図は、決して珍しいものではありません。彼の存在は、物語に政治的なサスペンス要素を加え、鞠子と双葉を更なる窮地へと追い込みます。しかし、正直なところ、この伊原の存在意義については、少々疑問を感じなくもありません。物語を複雑化させ、スケールを大きく見せるための装置としては機能していますが、物語の本質である鞠子と双葉のアイデンティティ探求というテーマからは、やや浮いている印象も受けます。彼の陰謀が、もう少し巧妙で、二人の運命とより深く絡み合っていれば、物語全体の深みが増したかもしれません。

脇役にも触れておきましょう。双葉を助ける雑誌記者・脇坂講介。彼もまた、複雑な出自を持つ人物として描かれ、双葉に共感し、協力します。彼の存在は、血縁だけではない「繋がり」の可能性を示唆していると言えるでしょう。しかし、彼の登場や動機付けには、ややご都合主義的な側面も感じられます。物語を円滑に進めるための役割以上の深みが、もう少し欲しかったところです。

さて、この物語のクライマックス、富良野のラベンダー畑で鞠子と双葉が初めて対面するシーン。これは非常に印象的です。「こんにちは」という、あまりにも平凡な挨拶。しかし、同じ顔、同じ声で交わされるその言葉は、二人が互いを認識し、受け入れた瞬間を象徴しています。これまで孤独に苛まれてきた二人が、自分と同じ存在を見出した安堵感、そして未来への微かな希望。それはまるで、鏡の中に映る自分自身と和解するような、静かで、しかし感動的な瞬間です。東野氏は、こういう情景描写が実に巧みですね。物語を通して散りばめられてきたレモンのモチーフも、このラストシーンで効果的に機能しています。

しかし、手放しで絶賛するわけにもいきません。物語全体を通して感じるのは、ある種の「予定調和感」です。鞠子と双葉がクローンであるという核心部分は、現代の読者にとっては比較的早い段階で予想がついてしまうかもしれません。「分身」というタイトル、鞠子の父の専門分野、そして二人の酷似した容姿。ヒントは序盤から散りばめられています。もちろん、ミステリーの醍醐味は犯人当てだけではありませんが、この核心部分のインパクトが薄れると、物語全体の推進力がやや弱まる感は否めません。

また、登場人物たちの心理描写についても、もう少し深掘りできたのではないか、と感じる部分があります。特に、クローン技術に関わった研究者たちの葛藤や、高城晶子の苦悩などは、もっと掘り下げれば、物語に更なる奥行きを与えられたはずです。彼女が、自分より若く美しい「分身」たちを拒絶する心情は理解できますが、その描写はやや表層的に留まっているように感じられました。人間のエゴや倫理観の揺らぎといった、より複雑な感情を描き切れていれば、単なるサスペンスに留まらない、重厚な人間ドラマになった可能性もあるでしょう。

それでも、この「分身」という作品が、多くの読者を惹きつけてきたことは事実です。それは、巧みなストーリーテリング、魅力的なキャラクター設定、そして何より、「自分とは何か」という普遍的なテーマを扱っているからでしょう。科学技術がどれだけ進歩しようとも、人間が抱える根源的な問いは変わりません。私たちは何者で、どこから来て、どこへ行くのか。鞠子と双葉の旅は、まさにその問いを巡る旅であり、読者自身の内面にも響くものがあるのではないでしょうか。

結論として、「分身」は、東野圭吾氏の初期の傑作の一つであり、医療サスペンス、SF、そして人間ドラマの要素を巧みに融合させた作品と言えるでしょう。構成の巧みさ、読者を引き込む筆力は流石です。しかし、現代の視点から見ると、核心部分の意外性の薄さや、一部の登場人物描写の浅さといった点は否めません。それでも、この物語が投げかける問いは、今なお色褪せることはありません。科学と倫理、家族の絆、そして自己の探求。これらのテーマについて考えさせられる、読み応えのある一冊であることは間違いないでしょう。まあ、少々感傷的に過ぎるかもしれませんが、たまにはこういうのも悪くない、といったところでしょうか。

まとめ

東野圭吾氏の小説「分身」。二人の瓜二つの女性、氏家鞠子と小林双葉が、それぞれの母親の死をきっかけに出生の秘密を探る、という筋書きです。物語の核心にはクローン技術という、当時としては斬新なテーマが据えられています。

物語は、サスペンスとして読者を引き込む力を持っています。鞠子と双葉、二人の視点が交互に描かれる構成、北海道と東京という舞台設定、そして散りばめられた謎。これらが巧みに組み合わされ、ページをめくる手を止めさせません。特に、携帯電話などが普及する前の時代設定が、情報伝達の不自由さを生み、物語に独特の緊張感を与えています。

しかし、この作品の真価は、単なる謎解きに留まりません。「家族とは何か」「母性とは何か」「科学技術と倫理」「そして自分は何者なのか」。これらの普遍的かつ根源的な問いを、読者に投げかけてきます。血の繋がりを超えた絆、科学の進歩がもたらす光と影、そして自己同一性の揺らぎ。鞠子と双葉の苦悩と探求の旅は、我々自身の問題としても響いてくるでしょう。ラストシーンの邂逅は、静かな感動を呼び起こします。少々古さを感じる部分や、展開に物足りなさを覚える向きもあるかもしれませんが、それを補って余りある魅力を持った作品と言えるのではないでしょうか。