小説「モダン」のあらすじをネタバレ込みでご紹介します。長文感想も書いていますので、どうぞ。
原田マハさんの手によるこの短編集は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)を舞台に、そこで働く人々の日常と、彼らの人生に深く関わるアートの物語を描いています。美術館の舞台裏で繰り広げられる人間模様は、単なる美術鑑賞にとどまらない、より深い感動と共感を私たちに与えてくれます。
この作品は、著者自身がMoMAでの勤務経験を持つキュレーターであるという背景が、そのリアリティと専門性を際立たせています。まるで実際にMoMAの中にいるかのような臨場感で、読者は作品の世界に引き込まれることでしょう。美術館の持つ普遍的な魅力と、そこで起こるささやかな出来事、そして人々の心の機微が、見事に描き出されています。
「モダン」は、東日本大震災やアメリカ同時多発テロといった歴史的な出来事を背景に、アートが人々の苦悩や喪失、そしてそこからの回復にどのような役割を果たすのかを問いかけます。アートが単なる鑑賞の対象ではなく、困難な状況を乗り越えるための精神的な支えとなることを、それぞれの短編が示唆しているのです。
この作品は、原田マハさんの他の美術作品、特に「楽園のカンヴァス」と世界観を共有しており、既存の読者にとっては作品世界へのさらなる没入を促します。アートを通して人生を見つめ直す、そんな豊かな読書体験がここにあります。
小説「モダン」のあらすじ
原田マハさんの短編集「モダン」は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)を舞台に、五つの異なる物語が展開されます。それぞれの物語は、MoMAで働く人々や、美術館に関わる人々の人生の断面を切り取り、アートが彼らの日常や心に与える影響を繊細に描き出しています。
表題作でもある「中断された展覧会の記憶」では、東日本大震災で中断された日本の企画展と、MoMAの展覧会ディレクター・杏子、そしてふくしま近代美術館の学芸員・伸子の出会いを描きます。放射能汚染への懸念から絵画「クリスティーナの世界」の返却を迫られる中、アートの持つ普遍的な力と、人々を繋ぐ希望が描かれています。
「ロックフェラー・ギャラリーの幽霊」では、アートに全く関心のなかったMoMAの警備員スコット・スミスが、ピカソの熱狂的なファンである「バー」との出会いを機に、アートへの認識を深めていく過程を描きます。アートが人々の心に予期せぬ変化をもたらす不思議な力がテーマとなっています。
「私の好きなマシン」では、幼い頃から「マシン」アートに魅せられてきたプロダクトデザイナーのジュリアの物語が語られます。MoMAが工業デザインを芸術として捉え、展示してきた革新的な歴史と、ジュリアが自身の創造性の源泉を見つけるまでの心の旅路が描かれています。
「新しい出口」では、東日本大震災で親友を失った学芸員ローラが、パニック障害を抱えながらも、ピカソとマティスの展覧会を機にMoMAを去る決意をします。アートが悲しみや喪失を癒し、新たな出発へと導く再生の力となることが示唆されています。
最後の短編「あえてよかった」では、MoMAに派遣された日本人職員の麻美と、パートタイム職員のパティとの心温まる交流が描かれます。異文化間での出会いと、日常のささやかな出来事の中に潜む感動、そして感謝の気持ちが、コーヒーカップに託されたメッセージを通して描かれています。それぞれの物語が、MoMAという場所が単なる美術館ではなく、人々の人生が交錯し、感動が生まれる「生きている」場所であることを教えてくれます。
小説「モダン」の長文感想(ネタバレあり)
原田マハさんの「モダン」を読み終えて、まず感じたのは、美術館という空間が持つ、計り知れない奥行きでした。ニューヨーク近代美術館(MoMA)という世界有数の美術の殿堂を舞台に繰り広げられる五つの物語は、アートが単なる鑑賞の対象ではなく、人々の感情、記憶、そして人生そのものと深く結びついていることを、私たちに鮮やかに示してくれます。
「中断された展覧会の記憶」は、東日本大震災という未曾有の災害を背景に、アートの持つレジリエンス(回復力)と、人と人との繋がりを描き出した感動作でした。アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」が、放射能汚染という風評被害に晒されながらも、福島の子供たちや学芸員・伸子の心に希望を与え続ける姿は、アートがどんな困難な状況下でも、人々に勇気と光をもたらすことを強く印象づけました。MoMAの杏子と伸子の間に生まれた連帯は、アートが国境や物理的な距離を超えて、人間の真の理解と共感を育む力を持つことを示唆しています。特に、クリスティーナが「絶望ではない、光だった」と語られる部分は、被災地の状況と重ね合わせることで、アートが持つ精神的な支えとしての力を際立たせていました。
「ロックフェラー・ギャラリーの幽霊」は、アートへの関心が薄いMoMAの警備員スコットが、謎の「バー」との出会いを通して、アートの真髄に触れていく物語です。ピカソの作品に全く興味がなかったスコットが、「バー」の純粋な熱狂に触れることで、アートを「おもしろいか、おもしろくないかは、誰かに言われて決めるんじゃなくて、見た人が自分で決めていい」ものとして捉え直す姿は、私たち読者自身の鑑賞体験にも新たな視点を与えてくれます。アートの価値は、専門知識や社会的評価だけでなく、個人の感情や情熱によっても深まるのだと、改めて気づかされました。美術館という公的な場所で、個人的な「愛」がこれほどまでに力強く表現されることに、胸を打たれました。
「私の好きなマシン」は、MoMAの革新的な歴史と、プロダクトデザイナーであるジュリアの創造性の源泉に迫る物語です。工業デザインをアートとして展示するというMoMAの先駆的な試みが、一人の少女の人生にどれほど大きな影響を与えたのかが、感動的に描かれています。アルフレッド・バー初代館長との出会いが、ジュリアの人生を決定づけたように、美術館という場所は、単に作品を展示するだけでなく、未来のアーティストやデザイナーのインスピレーションの源となるのだと実感しました。「おもしろいか、おもしろくないかは、見た人が自分で決めていい」という言葉は、この物語においても、芸術の自由な解釈と、個人の感性の重要性を強く訴えかけています。
「新しい出口」は、東日本大震災で親友セシルを失った学芸員ローラが、喪失の悲しみとパニック障害を乗り越え、新たな一歩を踏み出すまでの道のりを描いています。ピカソとマティスという二人の巨匠の作品が、ローラの心象風景と重なり合うように描かれることで、アートが個人の深い悲しみを癒し、再生へと導く力を持つことが示されています。MoMAを去るというローラの決断は、過去との決別と未来への希望を象徴しており、アートが人生の転換点において、いかに強力な力を持ち得るかを教えてくれます。友情とアートの結びつきが、深く心に残る一編でした。
そして、「あえてよかった」は、日常のささやかな交流の中に潜む感動と、異文化理解の温かさを描いた物語です。MoMAに派遣された日本人職員・麻美と、パートタイム職員のパティとの間に生まれた心温まる友情は、言葉や文化の壁を越えた人間の繋がりを示しています。コーヒーカップのメッセージを「Happy To See You.」に変える麻美の粋な計らいは、形式的な言葉よりも、心からの感謝と愛情が伝わることの尊さを教えてくれます。原田マハさんご自身のMoMAでの体験が反映されているということもあり、この物語にはひときわ深い人間味が感じられ、読後には温かい余韻が残りました。
これらの物語を通して、「モダン」が私たちに問いかけるのは、アートが単なる鑑賞の対象ではなく、人生のあらゆる局面において、私たちに寄り添い、力を与えてくれる存在であるということです。東日本大震災や9.11テロといった社会情勢が物語に深く絡められていることで、アートが社会の出来事を映し出す「鏡」であり、同時にそれらを乗り越えるための「力」となる、というメッセージが強く伝わってきます。
MoMAは、単なる「箱物」ではなく、そこで働く監視員、学芸員、デザイナーといった多様な人々によって「生き物」のように描かれています。彼らの情熱や苦悩、そしてアートへの愛情が、美術館の「魂」を形成しているのだと感じました。常に新しい表現を取り入れ、時代と共に進化してきたMoMAの姿は、アートが過去の遺産を保存するだけでなく、常に現在進行形で文化を創造し続けるダイナミックな存在であることを示しています。
原田マハさんの作品は、実在する場所、絵画、出来事、人物を巧みに絡ませることで、「本当にあったお話なんじゃないかと思うくらいの成功な作り」を実現しています。この「モダン」も例外ではなく、読み進めるうちに、まるでMoMAのギャラリーを歩き、そこで働く人々の息遣いを肌で感じているかのような錯覚に陥ります。彼女のアートに関する深い造詣が、物語に圧倒的なリアリティと説得力をもたらし、読者はこれまで知らなかったアーティストや作品を身近に感じられるようになるでしょう。
この一冊は、アートが人生を豊かにするという希望に満ちたメッセージを、私たちに力強く伝えてくれます。それは、芸術が「人類が人間であることを一度も諦めずに来た証拠」であり、「どんなに苦しくて、この世が終わるような出来事があったとしても、その文化、文明を繋ぐ人間らしい生き方をしていくことを、ずっと信じて、伝え続けてきたから今、アートがある」という、原田マハさんの作品に通底する深い思想が込められているからでしょう。「モダン」は、アートを愛する人にはもちろんのこと、これまでアートに触れる機会が少なかった人にも、その魅力を存分に伝えてくれる一冊です。
まとめ
原田マハさんの「モダン」は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)という象徴的な舞台を背景に、アートと人間の人生が深く交錯する五つの物語を描き出した、心温まる短編集でした。それぞれの物語は、東日本大震災や9.11テロといった歴史的出来事を背景に、喪失、再生、希望といった普遍的なテーマを扱い、アートが人々の心に与える計り知れない影響を示しています。
著者自身のMoMAでの経験と美術史への深い造詣が、物語に圧倒的なリアリティと専門性をもたらし、読者は美術館の裏側やそこで働く人々の息遣いを肌で感じることができました。アートが単なる鑑賞の対象ではなく、人生の苦難を乗り越える力、異文化間の理解を深める媒体、そして日常の中に潜むささやかな感動の源泉となりうることが、この作品全体を通して示唆されています。
この作品は、アートが人々の悲しみに寄り添い、希望を与え、社会の回復を促す役割を果たすことを私たちに教えてくれます。そして、MoMAが単なる美術品の展示空間ではなく、そこで働く人々の情熱や苦悩が息づく、まさに「生きている」場所であることも強く感じられました。
「モダン」は、アートを通して人間関係の温かさや、困難な状況下での人間の回復力に気づかせてくれる一冊です。読者は本書を通じて、アートへの新たな視点を得るとともに、「アートが人生を豊かにする」という希望に満ちたメッセージを受け取ることができるでしょう。