小説『ミステリークロック』のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

貴志祐介さんの『防犯探偵・榎本シリーズ』は、不可能犯罪、特に密室殺人の謎を巡る本格ミステリーとして、多くの読者から高い評価を受けています。その第4弾に位置づけられる本作『ミステリークロック』では、著者の密室トリックに対する深い探求心と、それを物語として昇華させる手腕が遺憾なく発揮されています。従来の探偵像とは一線を画す、防犯コンサルタントでありながら裏では泥棒という二面性を持つ榎本径と、弁護士の青砥純子のコンビが、今回も読者を惹きつけます。純子の推理がことごとく外れる様は、榎本の非凡な洞察力を際立たせるだけでなく、読者への意図的なミスリードとしても機能しており、真相解明のカタルシスを増幅させてくれます。

本書は、単行本に収録されていた4篇の短編・中編ミステリーのうち、「ゆるやかな自殺」と表題作『ミステリークロック』の2篇を収録した文庫版です。このコレクション全体が、様々な趣向を凝らした密室状況を描いており、貴志祐介さんがミステリーを「知的遊戯」として捉えている揺るぎない自信がうかがえます。特に表題作『ミステリークロック』は、その緻密さから「長編がかけるくらいのボリューム感があり重厚感は抜群」と評されるほど。各密室の謎にじっくりと向き合い、著者の仕掛けた巧妙な罠を存分に堪能するための、ある種の「読書体験の最適化」と言えるでしょう。

さて、本作に収録されている「ゆるやかな自殺」と表題作『ミステリークロック』は、それぞれが異なる舞台と密室状況、そして独創的なトリックを特徴としています。「ゆるやかな自殺」が物理的な「純粋密室」であるのに対し、表題作『ミステリークロック』は「一見密室ではないように見える」状況から「時間の壁に守られた完全密室」へと変貌を遂げます。このような多様な密室設定は、貴志祐介さんが単なる物理的な障壁だけでなく、時間、空間、心理といった様々な要素を密室の構成要素として捉え、その可能性を広げようとしている姿勢を浮き彫りにしています。

小説『ミステリークロック』のあらすじ

『ミステリークロック』に収録されている第一話「ゆるやかな自殺」の舞台は、過剰なまでに堅牢な防犯設備が施された暴力団事務所です。ドアには六つのロック、窓にはステンレスの格子がはめ込まれており、防犯コンサルタントの榎本径をして「めったにないくらい完全な密室」と言わしめるほどの状況でした。この異例な舞台設定は、トリックを成立させるための「堅牢な密室」という条件と、拳銃の存在が不自然ではない場所という二つの要素を自然に満たすために選ばれたものです。

この短編では、榎本が暴力団事務所の鍵を開けるよう強要されるという、シリーズとしては異例のシチュエーションで事件に巻き込まれます。通常、弁護士の青砥純子が事件を持ち込み、そこから榎本に連絡が入るというパターンが定着しているシリーズにおいて、このような導入は読者の期待を裏切り、新鮮な驚きを提供します。本作は「倒叙スタイル」を採用しており、犯人は物語の冒頭から明かされています。

しかし、読者の興味は「誰が犯人か」ではなく、「どのようにして被害者を死に至らしめたのか」というトリックの部分に完全に集中させられます。事件発生時、銃声が聞こえたにもかかわらず、犯人は子分と共に駐車場にいたというアリバイ崩しの要素も絡んでいます。この構成は、貴志祐介さんが最も得意とする「物理的トリック」の魅力を最大限に引き出すための戦略であり、読者への直接的な挑戦状とも言えるでしょう。犯行の手口が伏せられることで、読者は探偵役と共に、その巧妙な仕掛けを解き明かす知的ゲームに参加することになります。

続いて表題作『ミステリークロック』の舞台は、岩手県盛岡市郊外に佇む、人気ミステリー作家・森怜子の山荘です。物語は、怜子の作家生活30周年を祝う晩餐会から幕を開け、榎本径と青砥純子を含む、怜子の夫、前夫、甥、大手出版社の編集者といった関係者たちが招待されます。山荘の内部には、怜子が蒐集した無数の超高級時計が陳列されており、招待客たちはその価格の順位を当てるという奇妙なゲームに興じます。

超高級時計を巡るゲームが盛り上がりを見せる最中、山荘の主である女性作家・森怜子が自身の書斎で変死を遂げているのが発見されます。外部からの侵入は不可能と見られ、もし他殺であれば、山荘内にいる主客合わせて8人の中に犯人がいることになります。当初、この死は「完璧な事故」として処理されそうになりますが、偶然居合わせた防犯コンサルタントの榎本径が、その見立てに異議を唱えたことから、事態は一変します。「完璧な事故」に見せかけられた死という設定は、トリックの巧妙さを際立たせるための重要な要素なのです。

事件発覚後、物語はさらに緊迫した状況に陥ります。関係者のひとりが猟銃を持ち出し、犯人を処刑すると宣言し、その場で強制的に推理合戦を始めさせるのです。この状況は、榎本が「銃を突きつけられながら推理する」という、シリーズとしては珍しい「命がけの推理戦」を演出します。このような極限状況での心理戦とサスペンスが物語に導入されることで、読者へのさらなる緊張感と没入感を提供し、物語の予測不能な展開への期待感を高めてくれるでしょう。

小説『ミステリークロック』の長文感想(ネタバレあり)

貴志祐介さんの『ミステリークロック』を読み終えて、まず感じたのは、やはり著者の「密室トリック」への並々ならぬ情熱と、それを飽きさせない物語へと昇華させる手腕の確かさでした。現代において物理的な密室のネタが出尽くしたと言われる中で、貴志さんは常に新しいアイデアを模索し、異なる種類のトリックを作品ごとに使い分けています。その探求心は、過去の作品でビル清掃のゴンドラに実際に乗ったり、本作に収録されている未収録作「コロッサスの鉤爪」のためにJAMSTECへ取材を行ったりと、徹底したリサーチに裏打ちされています。この「偏執的」とも言えるこだわりが、読者に単なる物語消費以上の「知的遊戯」を提供しようとする、著者のミステリー作家としての矜持を示しているように感じました。

特に印象的だったのは、表題作『ミステリークロック』における「時間」を鍵とするトリックの多層的な解説です。被害者である人気ミステリー作家・森怜子が変死を遂げた書斎は、一見すると密室ではないように思えますが、実際には「時間の壁に守られた完全密室」という、極めて独創的な状況が構築されていました。このトリックは、「時計と時間差」を巧みに利用したものであり、「精密機械のよう」に緻密に設計され、「心理的、技術的によく考えられている」と評されるほど。その複雑さゆえに、読者によっては「なかなか凝った設定のトリックばかりで頭が追いつかなかった」と感じる方もいるかもしれませんし、私自身も一度読んだだけではその全容を把握しきれませんでした。それほどに、著者の仕掛けは緻密であり、読者への挑戦状なのだと改めて感じさせられました。

貴志祐介さんは、このトリックの原理自体には類例があることを認めつつも、その「アレンジ」にこそオリジナリティがあると語っています。これは、現代ミステリーにおけるトリックの「奇術化」という著者の哲学を体現するものです。単純な原理であっても、その見せ方や演出次第で新しさを生み出せるという考え方には、深く頷かされました。物理的な障壁だけでなく、時間の操作や認識の歪みがトリックの核心であるという点が、『ミステリークロック』の最大の魅力だと感じます。この多層的なトリックは、貴志祐介さんが追求する「不可能性の実現」という密室ミステリーの醍醐味を極限まで高めており、読者が「理解が追いつかない」と感じるほどの複雑さは、著者のトリックに対する「執念」の表れであり、同時に読者への「挑戦」でもあるのだと解釈できます。この挑戦は、読者に能動的な思考を促し、真相が明らかになった際の深い納得感と驚きへと繋がる、まさしく本格ミステリーの王道を行く体験でした。

また、本作に登場する主要人物たちの役割と事件への関わり方も見事でした。被害者の森怜子を取り巻く、現在の夫である時実玄輝、前夫の熊倉省吾、怜子の甥である川井匡彦、そして大手出版社の編集者など、多様な関係者が容疑者として浮上します。これらの関係者の多くがミステリー作家や編集者であるという設定は、作中で「密室論」が繰り広げられる背景を自然に提供し、物語にメタフィクション的な深みを与えています。登場人物たちが密室の定義やトリックの進化について議論する場面は、著者が自身のミステリー観を作品に投影する場としても機能しており、読者は物語を楽しみながら、ミステリーというジャンルそのものについての考察を深めることができます。彼らの職業や人間関係は、単なる背景情報ではなく、物語のテーマ性やトリックの成立に不可欠な要素として機能しており、その綿密な設定には脱帽です。

特に、事件発覚後に猟銃を突きつけられ、命がけで繰り広げられる強制推理合戦の緊迫感は、本作のサスペンス要素を大きく引き上げていました。榎本が「銃を突きつけられながら推理する」という、シリーズとしては珍しい「命がけの推理戦」を演出することで、単なる知的遊戯に留まらない、極限状況での心理戦とサスペンスを物語に導入しています。このような設定は、著者がシリーズの「ワンパターン化」を避けるための意図的な試みであり、読者にさらなる緊張感と没入感を提供することで、物語の予測不能な展開への期待感を高める効果があったと思います。読者として、榎本の身の安全を案じながら、彼の鮮やかな推理の行く末を見守る時間は、まさに至福のひとときでした。

第一話「ゆるやかな自殺」もまた、密室ミステリーとしての貴志祐介さんの手腕が光る一編でした。暴力団事務所という異色の舞台設定と、そこでの「シンプルながら巧妙」と評されるトリックは、比較的理解しやすいものであるにもかかわらず、その実現条件や実行方法に意外性があります。これは、読者が「なるほど」と膝を打つような、本格ミステリーの醍醐味を追求する著者の姿勢の表れです。物理的な密室という古典的なテーマを、現代的な設定と意外な方法論で再構築することで、読者に新鮮な驚きと納得感を提供しているのです。犯人が冒頭から明かされている「倒叙スタイル」を採用することで、読者の関心を「どうやって?」というトリックの部分に完全に集中させる構成も、貴志さんの得意技であり、その魅力を最大限に引き出していました。

貴志祐介さんが追求する「本格ミステリー」の醍醐味は、「不可能性の実現」にあると改めて感じました。彼は、実現できそうもないことをトリックを使って実現する面白さを追求し、読者にその「不可能」を「可能」にする鮮やかな手口を提示してくれます。また、「本格ミステリーのトリックは、しだいに奇術化しつつある」という作中の台詞に象徴されるように、著者はトリックの「見せ方」の重要性を強調しています。これは、たとえ単純な原理であっても、その演出次第で新しさを生み出せるという考え方です。著者は、読者がトリックを理解するのを諦めてしまうほどの複雑さを持ちながらも、「読者に読むことを諦めさせない工夫」を随所に凝らしている点が素晴らしいと感じました。これは、読者への挑戦と同時に、読者を引き込み続けるエンターテイナーとしての細やかな配慮であり、本格ミステリーの新たな地平を切り開こうとする著者の意欲の表れと言えるでしょう。読者は、一見すると理解困難なトリックに直面しながらも、著者の巧みな導きによって、最終的にはその精緻な構造を理解し、深い感動を味わうことができるのです。

さらに、貴志祐介さんの作品は、単にトリックを解き明かすだけでなく、物語全体の構造が読者をミスリードし、最終的な真相の衝撃を最大化するように設計されている点も特筆すべきです。事件の過程やキャラクター同士の関係性など、さりげなく書かれているようで全てが綿密に計算されており、緻密な伏線が張り巡らされています。新事実が明らかになるたびに状況が二転三転し、やがて意外な犯人とその動機にたどりつく展開は非常にスリリングです。読者は、提示される情報に惑わされながらも、探偵役と共に真相へと迫る過程を体験します。このような巧妙な仕掛けは、読者が能動的に推理に参加し、驚きと興奮を味わうための著者の技巧であり、物語への没入感を深める上で不可欠な要素となっています。

最後に、榎本径と青砥純子のコンビについて触れておきましょう。榎本径は、防犯カメラや鍵などあらゆる防犯関連機器に精通しているだけでなく、犯罪者の心情や習慣にも深く通じているため、犯人の視点から事件を分析し、密室の謎を鮮やかに解き明かします。彼の論理的かつ実践的なアプローチは、読者に深い知的満足感を与えてくれます。一方、青砥純子は榎本の相棒として登場しますが、彼女の推理はことごとく外れることが多く、榎本に小バカにされる場面が強調されるなど、狂言回しやピエロ的な役割を担うこともあります。しかし、この「推理が外れる」というキャラクター設定は、単なるコミカルな要素に留まりません。純子の思考は、読者が陥りやすい一般的な思考の罠を具現化しており、それによって榎本の非凡な洞察力と、事件のトリックがいかに巧妙であるかを際立たせる対比として機能しているのです。これは、読者への意図的なミスリードであり、最終的な真相解明のカタルシスを増幅させるための著者の緻密な技巧と言えるでしょう。彼女の存在は、物語への導入役として、また榎本の推理の鮮やかさを引き立てる重要な役割を担っており、このユニークなコンビだからこそ生み出される妙味を存分に堪能できる一冊です。

まとめ

貴志祐介さんの『ミステリークロック』は、「防犯探偵・榎本シリーズ」で著者が培ってきた密室トリックの技術と、物語を緻密に構築する手腕が凝縮された傑作です。表題作における「時間」を巡る緻密なトリック、そして他の収録作における「暴力団事務所」といった異色の舞台での密室の構築は、著者が常にミステリーの可能性を拡張しようとする挑戦的な姿勢を明確に示しています。単なる物理的な閉鎖空間に留まらない、時間や心理をも巻き込んだ密室の概念は、読者に新鮮な驚きを与えてくれることでしょう。

榎本径と青砥純子のユニークなコンビによる、ユーモラスながらも緊迫感あふれる謎解きは、読者に深い知的満足感とエンターテイメント性を提供しています。純子の的外れな推理が榎本の冴えわたる論理を際立たせる構図は、読者自身の思考を刺激し、物語への没入感を深める効果を生み出しています。彼らのやり取りは、重厚なトリックとサスペンスの中に、心地よい息抜きをもたらしてくれる、シリーズの大きな魅力の一つだと感じます。

本作は、単なる一連の短編ミステリー集ではなく、貴志祐介さんが「密室」というテーマに対してどれほどの情熱と探求心を持っているかを証明する作品です。各トリックが持つ「不可能性」の高さと、それを解き明かす「論理」の鮮やかさの対比が、読者に深い感動と興奮を与えます。緻密に張り巡らされた伏線と、読者をミスリードする巧妙な仕掛けは、本格ミステリーの醍醐味を存分に味わわせてくれるはずです。

本格ミステリーの伝統を踏まえつつも、現代的な科学知識や心理的要素を巧みに取り入れ、密室ミステリーの新たな地平を切り開いた作品として、その価値は極めて高いと言えるでしょう。『ミステリークロック』は、ミステリー好きならずとも、知的な刺激とエンターテイメントを求める全ての方にお勧めしたい一冊です。ぜひ手に取って、貴志祐介さんが織りなす驚愕の密室世界を体験してみてください。