小説「アンチノイズ」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
まず「アンチノイズ」は、都会の喧騒を背景に、人と人がどうしてもかみ合わないまま生きていく姿を描いた物語です。騒音測定の仕事をする「ぼく」、心を閉ざしつつある恋人フミ、盗聴を趣味にするテレクラ嬢マリコ、調律師の郁夫など、音に縁の深い人物たちが交差します。
「アンチノイズ」は、いわゆるラブストーリーでありながら、甘さよりもズレや違和感の方をじっと見つめていく作品です。音の地図作り、梵鐘の響き、絶対音感といったモチーフを通じて、「聞こえているのに、本当には聞いていない」関係の危うさが浮かび上がります。
また「アンチノイズ」は、作者のいわゆる「耳の三部作」の一つとされ、音楽や騒音にまつわる描写がとても豊かです。恋愛小説として読むこともできますし、都市論として読むこともできますし、現代人の孤独を描いた作品として味わうこともできます。ここから、物語のあらすじと長めの感想を順に見ていきます。
「アンチノイズ」のあらすじ
物語の語り手である「ぼく」は、区役所の環境保全課で騒音測定を担当しています。昼間は苦情の出た現場を回り、機械で音を測る日々。その一方で、自分だけの「音の地図」を作ることに夢中になり、街のどこにどんな鐘や機械音や人の声が響いているのかを、細かく記録し続けています。ここでは、そのあらすじの前半部分を中心に追いかけていきます。
私生活では、写真学校に通う恋人フミと半同棲のような暮らしをしていますが、関係はぎくしゃくし始めています。フミはキスさえも拒むようになり、「ぼく」は理由が分からないまま不安をこじらせていきます。その寂しさのはけ口として、テレクラで知り合ったマリコと会うようになり、音と身体が絡み合う関係に足を踏み入れていきます。
マリコは無線の資格を持ち、盗聴器の扱いにも長けた女性です。彼女と過ごすうちに、「ぼく」は他人の会話を盗み聞きする世界へと引き込まれていきます。仕事で扱う騒音、趣味としての音の地図、さらに盗聴という形での音。音は、単なる環境ではなく、人の欲望や秘密に直接触れてしまう危ういものへと変わっていきます。
一方、「ぼく」の友人である調律師・郁夫は、元妻と息子との間に奇妙な溝を抱えています。元妻は絶対音感の持ち主で、息子に「父親の声は特定の音高だ」と教え込んだせいで、郁夫が会いに行っても「他人」として扱われてしまうのです。そんな郁夫の悩みを聞きながら、「ぼく」もまた、マリコの盗聴をきっかけにフミを疑い始めます。音の地図作りと盗聴が進むにつれ、フミ・マリコ・郁夫の問題は少しずつ絡まり、やがて決定的な夜へ向かっていきますが、その結末はこのあらすじでは伏せておきます。
「アンチノイズ」の長文感想(ネタバレあり)
読み終えてまず強く残るのは、「アンチノイズ」という題名の手触りでした。ノイズを消す、というより、むしろノイズにまみれた世界で、どの声を聞き取り、どの声を意図的に切り捨てるのか。その選び方そのものが、人間関係のかたちを決めてしまう、という感覚が作品全体に流れています。都会の雑踏や機械音が背景にあるのに、いちばん聞こえにくいのは、すぐそばにいる大切な人の本心なのだと痛感させられました。
「アンチノイズ」の中心にいる「ぼく」は、格好の良いヒーローからは程遠い人物です。仕事は公務員で安定しているものの、ロックへの未練を抱えつつ、恋人が冷たくなるとテレクラに逃げ、そこで出会ったマリコとの関係に溺れていく。倫理観はどこか曖昧で、フミへの愛情とマリコへの依存を行き来しながら、自分自身の欲望をきれいに説明できないまま、音の世界に逃げ込んでいきます。その未熟さが不快に映る人もいると思いますが、「今の自分は何を聞こうとしているのか」という問いを突きつけてくる存在でもあります。
そんな「ぼく」の周囲にいるフミとマリコは、「アンチノイズ」を支える二つの極として描かれています。フミは物静かで、自分の殻を守るのに必死な若い女性です。彼女が心を閉ざしていく理由は物語の終盤まで明かされませんが、読者に伝わってくるのは、「ぼく」がその沈黙を真正面から聞こうとしていないことです。フミの態度を「冷たい」と決めつける一方で、彼自身はマリコに逃げている。その不均衡が、二人の関係を少しずつ壊していきます。
マリコは、まさに現代的な「音の魔術師」のような人物です。テレクラという場で他人の声を浴びるように聞き、仕事が終われば盗聴器を仕掛け、無線を通じて見知らぬ人たちの会話を拾う。彼女は身体を武器にしているようでいて、実は「声」と「音」をコントロールする技術で、生き延びているようにも見えます。「ぼく」は彼女から刺激的な快楽と情報を与えられますが、その裏でマリコもまた、誰かに自分の声を本気で聞いてほしいと願っているように感じられました。
もう一人の重要人物である調律師・郁夫は、「アンチノイズ」のテーマを分かりやすく体現する存在です。元妻は絶対音感の持ち主で、息子に「父親の声」を特定の音として教え込んでしまったため、郁夫が会いに行っても、息子は「違う音」として受け取ってしまう。血のつながりよりも、耳の感覚の方が優先されてしまう世界の残酷さが、ここにはあります。このエピソードは、愛の証拠が簡単には共有できないことへの寓話として機能しており、読後もしつこく頭に残ります。
ここから結末に触れるネタバレになりますが、「アンチノイズ」のラストは決して爽快なものではありません。フミの秘密は、物語中でさんざん匂わせられてきた割には、読者によっては拍子抜けするような内容だと感じられるかもしれません。派手な裏切りや劇的な犯罪ではなく、彼女自身が自分を守るためについた小さな嘘や、誰にも見せたくなかった傷にまつわる事情が、静かに明かされていきます。その淡さに物足りなさを感じる読み手もいますが、「期待したドラマの大きさと、現実のささやかさのギャップ」こそが、この作品らしさだとも言えます。
結末近く、「ぼく」も郁夫も、自分が本当に望んでいた関係を得ることはできません。フミともマリコとも、どこか取り返しのつかないところまで行ってしまっていて、すべてをやり直すには遅すぎる。郁夫もまた、息子と完全に和解することはできず、「自分の声」が届かない現実を抱えたまま立ち尽くします。ハッピーエンドではないけれど、だからこそ感じられる生臭さがあり、「うまくいかないままでも、生きていくしかない」という諦めとも希望ともつかない感情が残ります。
「アンチノイズ」の構成は、一本筋の通った事件小説というより、いくつものエピソードがたゆたうようにつながっていく印象があります。騒音苦情の現場、盗聴で拾った会話、音の地図作りの過程、郁夫の家庭の物語などが、入れ替わり立ち替わり現れては消えていく。そのため、「何がメインの話なのか分かりにくい」と感じる人もいるでしょうが、「世界はこんなにも音と声で溢れているのに、自分はそのうちのどれを選んで聞いているのか」という体感を、読者にそのまま味わわせる構造になっているとも読めます。
文体について言えば、音の描写はやはり印象的です。梵鐘が街に落とす影のような残響、ヘッドホンから漏れるロックの振動、安アパートの薄い壁越しに聞こえる隣室の物音。視覚よりも聴覚を優先した描き方が多く、ページをめくっていると、自分の耳も少しずつ敏感になっていくような感覚がありました。一方で、性的な場面も少なくなく、その率直さに好みが分かれるところでもありますが、多くは人と人がかみ合わないもどかしさを際立たせるための装置として機能しています。
興味深いのは、「アンチノイズ」が「耳の三部作」の締めくくりに位置付けられることです。同じ系列の「グラスウールの城」や「パッサジオ」でも、音や声が人間関係のメタファーとして使われていましたが、「アンチノイズ」ではより直接的に、「聞こえているのに伝わらない」という問題が前面に押し出されています。のちに受賞作へとつながっていく作者の作風を考えると、この作品は、その手前で「音」と「都市」と「愛」の関係を集中的に実験した一冊だと見ることもできそうです。
評価という点で言えば、「アンチノイズ」は読者の好き嫌いがかなり分かれる作品だと思います。日常の音を描いた部分や、「音の地図」というアイデアには強く惹かれるものの、物語のオチがすっきりしない、主人公に共感しづらい、といった感想も生まれやすい構造です。他方で、「こんなにも音に満ちた世界を、ここまで小説として立ち上げてみせた作品は貴重だ」と評価する読み手も少なくありません。感情移入するというより、登場人物たちの不器用さを、少し距離を置いて眺めながら読んでいくと、味わいがぐっと深まるタイプの本だと感じました。
個人的には、「アンチノイズ」はきれいにまとまった物語を期待して読むより、自分の生活と重ね合わせながら「自分は、何をノイズとして切り捨て、何を大事な声として聞こうとしているのか」を考えるきっかけにする作品だと思いました。スマホやイヤホンで常に何かしらの音に包まれている今の暮らしの中で、本当に聞くべきものは何か。フミやマリコ、郁夫たちの選択の揺らぎを見ていると、「聞こうとしない限り、どんな声も聞こえない」という、当たり前だけれど逃げたくなる現実が、静かに突きつけられてくるのです。
まとめ:「アンチノイズ」のあらすじ・ネタバレ・長文感想
- 騒音測定の公務員、「音の地図」作りという設定を通して、現代都市の音と孤独が描かれる。
- 恋人フミとテレクラ嬢マリコ、調律師の郁夫など、「耳」にまつわる人物たちが物語を支える。
- あらすじだけ追うと地味に見えるが、日常の音の描写が濃密で、読後に自分の耳が敏感になる体験ができる。
- 盗聴や不倫といったモチーフを通じて、「他人の声を盗み聞きしても、本当に大事な声は分からない」という皮肉が浮かぶ。
- 郁夫のエピソードは、絶対音感と家族の断絶を結びつけた象徴的な挿話として心に残る。
- フミの秘密の明かされ方は派手ではなく、その肩すかし感も含めて「現実のささやかさ」を示している。
- 結末では誰も理想的な関係を手に入れられず、ハッピーエンドを拒むことで現実味のある余韻を残す。
- 性的な描写は多いものの、単なる刺激ではなく、登場人物たちの孤独とズレを際立たせる役割を担っている。
- 物語のまとまりよりも、音や声の断片を味わう読み方をすると、「アンチノイズ」の魅力がよく見えてくる。
- 「耳の三部作」の一冊として、作者の音への執着と、都市に生きる人々のすれ違いを凝縮した作品といえる。












